中東のパレスティナ十字軍王国で発祥し、王国の主要防衛力となっていた聖ヨハネ騎士団は王国滅亡後、キプロス島を経てロードス島へ移転したが、1522年、地中海の覇権を狙うオスマン帝国の侵攻を受けてロードス島も追われ、シチリア島へ敗走した。
その際、教皇クレメンス7世と神聖ローマ皇帝兼スペイン国王カール5世の仲介を受け、マルタ島を支配していたスペイン領シチリア王国からマルタを租借する形で、聖ヨハネ騎士団がマルタの新たな統治者となった。形式上はシチリア王国に臣従する属国となる。これ以降、聖ヨハネ騎士団は通称マルタ騎士団となり、1530年から268年間の長きにわたってマルタを統治していく。
マルタ騎士団は欧州の様々な国に出自する騎士から成る多国籍・多言語集団であったから、団員の使用言語別に軍団組織が形成されるというユニークな構造を持っていた。この軍団はまさに言語を意味するラングと呼ばれ、時代的な変遷はあるが、 ガロ・ロマンス語、イベロ・ロマンス語、イタロ・ダルマチア語、ゲルマン語・スラブ語、英語など、当時の欧州における主要言語別に組織されていた。
このような仕組みは、聖ヨハネ騎士団がロードス島を支配した14世紀に確立された後、マルタに移った後も維持され、各言語別軍団ごとに騎士館を築いて宿営した。それら騎士館の建造物の一部は改装を施されつつ、現存している。
騎士団総長は主にフランス語かスペイン語の話者であったが、マルタ島に定着すると、共通語はイタリア語となった。これは、シチリア王国の属国となったことで、当時のシチリアの支配階級間に普及していたイタリア語トスカーナ方言がマルタにも持ち込まれて、実質的な共通語となったものと思われる。そうしたシチリアとの言語的な収斂化がこの時代以降のマルタの言語を特徴づけることになる。
もっとも、イタリア語を使用するのは支配階級に属する騎士団員が中心であり、大多数のマルタ島民は従来からのマルタ語を使用したため、階級的な言語格差が生じた。このような支配階級と被支配階級の二重言語化は、外来の統治者に支配された所ではしばしば見られる言語事象である。
騎士団統治時代の末期の18世紀になると、マルタの一部を成すゴゾ島出身のカトリック聖職者で言語学者でもあったアギウス・デ・ソルダニスが本格的なマルタ語の研究を展開し、初めてのマルタ語文法書を出版するとともに、現代マルタ語のラテン文字表記の基礎となる書記法を創案した。
他方、彼は当時のマルタ語がイタリア語化していた現状を批判していたことから見て、騎士団統治時代末期の18世紀になると、二重言語化はかなり収斂し、マルタ語にロマンス語系の要素がかなり混在するようになっていたことを窺わせる。