Ⅱ 上代の女性君主たち
二 女帝の世紀:奈良時代
平城京遷都の和銅三年(710年)から平安京遷都の延暦十三年(794年)までの84年にわたり、西暦では8世紀代の大半を占めたいわゆる奈良時代は、のべ四代の女性天皇や天皇に準じる権力を持った実権皇后を輩出し、男性天皇の影が薄かったという点で、日本歴史上例を見ない独異な時代であったと言える。
奈良時代の日本政治がこれほどまで女権政治に傾いた要因はあまり究明されていないが、適齢の男性皇位継承者が少なかったという皇位継承上の便宜ばかりでなく、奈良時代を準備したとも言える実力派女帝・持統天皇の影響力が没後も残されていたこともあったと考えられる。
1:元明天皇(661年‐721年)
(ア)登位の経緯
天武・持統両天皇の孫で、持統天皇から譲位を受けた男帝の文武天皇が25歳で早世し、遺子・首[おびと]皇子(後の聖武天皇)が幼少であったことから、文武天皇生母・首皇子祖母として皇太妃の称号を持つ阿閇[あへ]皇女が緊急的に即位した。皇后を経ずして女性天皇となった初例にして、皇子⇒母への皇位継承例としても唯一である。
(イ)系譜
天智天皇第四皇女で、持統天皇の異母妹に当たる。生母は蘇我倉山田石川麻呂の娘の姪娘[めいのいらつめ]で、彼女は持統の生母・遠智娘[おちのいらつめ]の妹であるため、持統は母方の従姉に当たるという複雑な二重の血縁関係にあった。夫は天武・持統両天皇の長男で甥に当たる草壁皇子であったが、死別した。
(ウ)治績
最大の治績は平城京への遷都である。従って、元正天皇は奈良時代最初の天皇となり、初代奈良朝天皇として、姉・持統が整備した大宝律令に基づく日本版律令政治の本格的な展開を主導した。治世末期には地方制度の基礎となる郷里制を導入した。文治政策としては、天武天皇の代からの勅令であった『古事記』を完成、献上させるとともに、地方地誌『風土記』の編纂や諸国の地名を縁起の良い漢字二文字で表記することを命じる好字令を詔勅した。
(エ)後世への影響
平城京遷都により、奈良時代という一時代を築くとともに、『風土記』の編纂や郷里制導入など、地方の実情把握と制度の整備に努めたことは、律令政治を全国に拡大する契機となった。
2:元正天皇(680年‐748年)
(ア)登位の経緯
生母である元明天皇から譲位を受けて皇女から即位。女性(母)⇒女性(娘)への天皇位継承がなされた唯一の事例となる。また、婚姻歴なく、独身で即位した初の女性天皇である。
(イ)系譜
草壁皇子の長女(氷高皇女)にして、文武天皇の姉。天武・持統両天皇の孫女に当たる。
(ウ)治績
退位した母・元正天皇が存命した721年までは母の後見下にあったと推察され、独自の治績は自身が甥の首皇子(聖武天皇)に生前譲位した724年までの三年間である。治世中に、日本初の正史『日本書紀』が完成した。税収確保策として、孫の代まで三代にわたる開拓農地の所有を可能とした三世一身法を導入した。首皇子に譲位した後は、太上天皇として聖武天皇を後見し、病弱だったと言われる聖武天皇に代わり、難波京への一時遷都の勅の代理発令など、748年に死去するまで上皇として実権を持った期間のほうが長い。
(エ)後世への影響
三世一身法は律令制的土地制度の形骸化を招き、日本式律令制度の早期崩壊の要因と発端となった。藤原不比等の死後、母・元明の娘婿(自身の義弟)で、その信頼篤かった長屋王をおそらくは母の意向で不比等の後継にしたことは、後の長屋王の変の動乱につながった。首皇子に譲位した後は、太上天皇として甥の聖武天皇を「我子」と呼び、長く後見し、上皇としての本格的な院政の初例を作ったと言える。
※備考
母の元明天皇が生前譲位を決めた時、文武天皇遺子の首皇子は数えで15歳に達しており、14歳で即位した父の文武天皇の先例からしても首皇子の即位もあり得ながら、なぜあえて娘の氷高皇女が即位したかは不明である。元明は譲位前年の714年正月、娘の氷高皇女に、将来の皇位継承を見越して、食封を1000戸に加増しており、娘への皇位継承を規定路線と考えていたようである。孫・首皇子への皇位継承を確保するための迂回路とも言えるが、女権へのこだわりも感じさせ、持統天皇以来のある種フェミニズムも見え隠れする異例の皇位継承であった。