歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

高家旗本吉良氏略伝(連載第7回)

六 吉良義弥(1586年‐1643年)/義冬(1607年‐1668年)

 
 徳川家康の縁戚として近世吉良氏の祖となった吉良義定は関ヶ原の戦いの時はまだ30代であったが、自身は従軍せず、代わりに嫡男義弥〔よしみつ〕が従軍している。義弥は12歳の時、後に2代将軍となる家康の息子秀忠との謁見を許され、臣従したというから、この時点で家督を譲られたとも考えられる。
 まだ10代の義弥は関ヶ原で秀忠から下賜された具足を着用して出陣したというほど、秀忠に寵愛されたようである。戦後は三河に3000石を与えられ、旗本に取り立てられた。大名には届かなかったとはいえ、開幕後には従五位下から一般の大名より高い従四位下の官位まで進み、いわゆる高家旗本としての地位を確立している。よって、義弥が高家旗本吉良氏としての初代となる。
 高家旗本は幕府の儀典を司る世襲職として、他の諸制度とともに2代将軍秀忠の時代に創設されたものであった。その資格条件は、古い由緒を持つが、大名に値するほどの実力は持たない武門であり、最初例は旧今川家臣の大沢氏であった。これに続いて吉良氏とその分家で大名としてはすでに没落していた今川氏が加わった。
 こうしてみると、最初期の高家はいずれも今川氏を含む今川関連の氏族であったことがわかる。ちなみに、義弥自身の生母は今川氏真の娘であると同時に、正室も氏真嫡男範以の娘であり、今川氏と緊密な縁戚関係を結んでいる。
 義弥の事績としては、元和年間、秀忠の孫娘に当たる興子(後の女帝明正天皇)生誕やその生母で秀忠の娘和子〔まさこ〕の立后に際しての幕府使者としての役割が記録され、引き続き秀忠の信任が篤かったことを窺わせる。
 義弥の嫡男義冬も11歳で秀忠の御目見がかない、父の在任中から見習い的な同行や派遣を経験し、3代家光時代の寛永二十年(1643年)、父の死没を受け、満を持して吉良氏当主に就いた。家禄も4000石に加増され、最終官位は父を越える従四位上であった。
 かくして、吉良氏は江戸時代初期、義弥・義冬父子の時代に高家としての地位を確立し、次代の義央時代にはいっそうの権勢を誇るようになるのであるが、皮肉なことに、それは吉良氏の突然の滅亡をもたらすことになる赤穂浪士事件の予兆でもあった。