歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第47回)

第十一章 持統女帝の役割

持統天皇は、一般的に夫・天武天皇の遺志を継いで律令制を完成させた“中継ぎ”の天皇と脇役的にとらえられているが、彼女の果たした役割はその程度のことにとどまるものであったか。

(1)生い立ち

乙巳の変」の申し子
 正史上の第41代持統天皇は後に天智天皇となる中大兄皇子と、乙巳の変の後「改新」政権(孝徳政権)で最初の右大臣となる蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘[おちのいらつめ]の間の二女(別伝では三女)として誕生したが、こうした彼女の出生自体が、乙巳の変と不可分に関わっている。
 遠智娘は乙巳の変の直前に蘇我王家傍流の石川麻呂を味方に引き込んで蘇我朝を分断するという中臣(藤原)鎌足の計略で中大兄に嫁がされることになっていた姉が一族の者(石川麻呂の弟・日向)に犯されるという不祥事が起きたため、衝撃で放心状態の父を救おうと、自ら志願して姉の代役で中大兄に嫁いだ経緯があった。
 そうだとすると、645年生まれとされる正史上の持統の生年は、このエピソードと整合しないところがある。天智紀によると、彼女は天智と遠智娘との間の第二子または第三子とされるため、その生年は乙巳の変のあった645年よりも後のはずである。
 いずれにせよ、母の遠智娘はその父・石川麻呂が弟の日向に仕組まれた冤罪で自殺に追い込まれたばかりか、その遺体をさらに斬られるという陵辱を加えられたことを気に病み、狂死してしまう。こうして、持統は幼くして生母を喪った。
 しかも、この件には父の天智が中心的に関わっていたことから、持統は後々まで父に対する複雑な感情を抱いていたものと思われる。一方で、母を介して蘇我馬子大王の四世孫にも当たることから、母への追慕の情とともに、蘇我氏に対して秘かに肯定的な感情を抱いていたとしても不思議はない。
 こうした微妙な生い立ちは、持統の歴史観や政策にも影響を及ぼさないわけにはいかなかったであろう。ただ、その微妙さは『書紀』の人物紹介に「落ち着きある広い度量の人柄」と記される性格の中に慎重にしまい込まれていた。

河内育ち
 持統の諱の「鸕野讚良」は河内国讚良郡鸕野里[さららのこおりうののさと]にちなんでいるが、この「讚良郡」は百済の海南県紗羅郡に由来すると言われ、実際この近辺は5世紀後葉以降、百済系渡来人の集住地域となっていた。
 天武天皇時代に連の姓を賜った地方豪族の中に娑羅羅馬飼造[さららのうまかいのみやっこ]、菟野馬飼造[うののうまかいのみやっこ]など馬の飼育に関わる氏族名が確認できるが、これらも王朝開祖・昆支大王の支持基盤であった河内閥に遡る可能性のある百済系豪族と見られる。
 持統の諱がこの讚良郡鸕野里にちなむということは、彼女が幼年時代、この地で養育されていた可能性を示している。おそらく皇族の傅育を担当する百済系氏族のもとに預けられていたものであろう。ともあれ、持統の諱は、昆支朝の百済ルーツをよく示しているものと言える。
 持統は夫・天武を輔弼した皇后時代から天皇、譲位して太上天皇上皇)となった後の事績から推すと、政治・行政に関する相当の識見を有しており、古代の女子としては異例の高等教育を授けられていたと思われる。
 その理由はよくわからないが、皇后との間に子がなく、男子にあまり恵まれなかった父・天智が側室の妃の中では最も身分の高かった遠智娘との間に生まれた鸕野讚良皇女に期待をかけ、女子ながら男子並みの知識教育を受けさせたということも考えられないことはない。
 いずれにせよ、彼女は天智の数多くいた娘たちの中でも突出して知的に育てられ、やがてその知力を武器にして政界でも頭角を現すようになるのである。

(2)権力への道のり

叔父との政略婚
 持統天皇となる鸕野讚良皇女が政界へ足を踏み入れるきっかけは、叔父に当たる大海人皇子の妃となったことであった。それは657年のこととされるから、正史上の出生年で計算しても数えでわずか13歳、実際にはもっと幼年であった可能性が高い。要するに許婚の形での幼年政略婚であり、天智が弟の大海人に嫁がせた四人の娘の一人であった。
 その後、彼女は661年の筑紫遷都にも夫とともに同行し、翌年にはその地で二人の間の一粒種となる草壁皇子を出産している。十代での第一子出産であったにもかかわらず、以後二人の間には子が生まれなかったことが医学的な理由によるものでないとすれば、二人の関係は次第に夫婦というより政治的な同志のようなものに変容していったものと考えられる。
 そうした政治的同志としての活動の最初は、輿に乗って夫とともにに東国入りし、『書紀』に「兵に命じて味方を集め、天皇(大海人)とともに戦略を練った。死を恐れぬ勇者数万に命じて、各所の要害を固めた」と記された壬申の乱の時であった。
 もっとも、鸕野讚良がまるで大海人陣営の参謀長でもあったかのように記されるのは『書紀』の誇張であろう。壬申紀にも見えるように、乱で実際に大海人側の参謀長役を務めていたのは、大海人の一番年長の息子で鸕野讚良にとっては義理の息子である高市皇子であったと考えられるからである。
 もっとも、乱に際し夫と行動をともにしていた鸕野讚良も必要に応じて戦略上の助言をしていた可能性はあり、政治的助言者としての彼女の地位は夫の天皇即位前から確立されていたものと見てよいだろう。
 このように、鸕野讚良は幼年政略婚で大海人の妃となりながら、ただの「出産機械」で終わることなく、夫の同志・助言者として次第に自らも権力への道を意識的に歩むようになっていくのである。

皇后時代
 壬申の乱に勝利を収めた夫・大海人が天皇に即位すると、鸕野讚良は皇后となる。実は大海人には実姉の大田皇女も嫁いでいたが、早世していたため、皇后の座は妹の鸕野讚良に回ってきたのであった。
 皇后時代の彼女は、前章でも見たように、天武天皇皇親政治の中では実質的な太政大臣格として天皇の輔弼の任に当たり、重要な政策決定のほとんどすべてに関わったことは確実である。
 実際のところ、晩年になるにつれて怠惰な遊興人と化し、健康も悪化していった天武に代わってますます皇后の政治的な比重は高まり、天武の病気がいよいよ重くなった686年7月には天皇の勅命により、皇太子・草壁皇子とともに事実上の摂政として国政の権限を委任された。
 同年9月に天武が死去すると、皇后称制体制を敷き、政権を掌握する。その直後に、甥(大田皇女の子)で義理の息子でもある大津皇子の謀反が発覚すると、事件処理を指揮し、大津を処刑、他の共犯者らを流刑に処する迅速な処断で政情を安定させた。
 この大津皇子の「謀反」については、『書紀』ですら「威儀備わり、言語明朗」「有能で才覚に富み、文筆を愛した」と簡潔ながら最大級の賛辞を寄せる大津を実子・草壁の潜在的なライバルとみなし、皇后が謀反の罪を着せて抹殺した冤罪とする見方もある。
 しかし、大津が単なるノンポリ文学青年でなかったことは、天武12年2月条に大津皇子が初めて参政したとの記事があることからわかる。また大津という近江にちなんだ名前や、祖父の天智天皇に愛されたという『書紀』の人物紹介からすると、大津皇子は内心では近江朝廷派で、秘かに近江朝廷復活を夢見ていた可能性はある。
 従って、大津皇子の謀反はどの程度具体的な計画であったかという点は別としても、真実であった可能性は高い。しかし、十分吟味せず、即決処刑する皇后のやり方は父・天智譲りなのであろう。
 この後、皇后称制は三年近くも続くが、すでに天武10年の節目に一人息子・草壁皇子立太子していたのに、なぜ早期に皇太子を即位させなかったのかという点についても議論がある。
 自ら皇位に就く意図があったという説もあるが、立太子の制度が天武時代にはまだ法的に確立されていなかったため、草壁後継は必ずしも不動の既定路線とは言い難かったことや、草壁の年齢がまだ若かったことなどが現実的な理由であろう。また大津皇子の謀反事件も大きな波紋を呼び、称制期間を長引かせる要因となったかもしれない。

天皇即位
 ところが、689年4月、草壁皇子が死去してしまう。これにより、後継問題は一挙に流動化する。存命中の天武の皇子の中で最有力の後継候補は、壬申の乱でも活躍し、天武皇親政治の中では皇后に次ぐ地位にあったと見られる高市皇子であったが、彼の生母は九州の地方豪族・胸形君の娘で、母の身分に難点があった。
 皇后が自らの即位を決心したのは、おそらく一人息子・草壁の死去後のことであったと思われる。彼女は、夫がやり残していた令の施行を前倒しし(飛鳥浄御原令)、即位の条件整備をしたうえで、690年正月に即位する。後昆支朝では初の単独統治女帝である。
 従来、男性優位の百済系昆支朝の慣習では、女性の単独即位には否定的であったはずなのに、7世紀末になって単独統治女帝が出現したのは、この時期に女性の地位が急上昇したためではなく、皇后が天武時代の実質的な宰相であった事実を誰もが認めざるを得なかったことに加え、彼女自身が天智天皇の娘でもあるという「血統」の確かさもプラスに作用したに違いない。
 より大きな背景として、百済滅亡により王朝ルーツを喪失して以来の「日本国」では、百済=扶余的な慣習からの脱却が進んでいたことと、また半島のライバル国家となった新羅では7世紀半ばに単独女王を輩出していたことも、単独女帝の出現に道を開き、以後8世紀の奈良朝にかけて複数の単独女帝を輩出する流れを作り出したと考えられる。
 天皇としての持統の統治スタイルは、夫の独裁的皇親政治を形式上は修正し、身内の高市皇子太政大臣に、ベテラン官人の丹比嶋真人[たじひのしまのまひと]を右大臣に任命して補佐させる体制を採ったが、本質的には天武時代の独裁的統治スタイルを継承していた。
 そうした統治スタイルの点のみならず、政策面においても、持統が夫・天武の代にやり残された仕事を継承していたことは間違いない。とりわけ律令の制定、国史の編纂、都城の建設である。
 これらのプロジェクトを持統は「夫の遺志」をよりどころとして継承していたわけであるが、それは単に中継ぎ的なレベルでの継承ではなく、「大化の改新」以来、父・天武天皇が目指したような天皇至上制の完成へ向けた積極的な継承事業であったのである。