一 小倉宮恒敦(?‐1422年)
小倉宮恒敦は「南朝後統」・小倉宮家の創始者と目される人物であるが、その影は限りなく薄い。わかっているのは、彼が南朝最後の後亀山天皇の皇子であったこと、嵯峨小倉山下に居住していたこと、1422年(応永二十九年)に死没したことくらいである。
とはいえ、一次史料で確認できる後亀山天皇の唯一の皇子であり、実在性は確かであるが、その事績は全く不詳である。実際、小倉宮家が南朝再興運動に乗り出していくのは恒敦の子息・小倉宮聖承の代からであり、恒敦がそうした政治運動に関わった形跡は全くない。
おそらく恒敦は政治には一切関与することなく、隠棲に近い暮らしをしていたのであろう。その心境を察するに、彼は南北朝の和合と統一に尽力した父帝の姿を見てきており、再び朝廷の分裂につながるような行為に出ることは慎んでいたと思われる。
その点、父の後亀山院は南北朝統一の条件である旧北朝(持明院統)と旧南朝(大覚寺統)が交互に皇位に即く両統相代の条件が履行されないことを遺憾として吉野へ出奔しているが、これに恒敦が同行した記録もない。
両統相代といっても、時の北朝系後小松天皇の後継として恒敦が次期天皇の候補に挙がっていた形跡もないので、恒敦は旧南朝系の中でもさほど重みのある人物ではなかったように見える。そうした点でも、父と子息に比べて全く影の薄い人物であった。
後亀山院は京都に帰還した後、1424年(応永三十一年)に失意のうちに死去しているが、恒敦は父に二年先立って死去していることから、病弱であった可能性もあるだろう。そうだとすれば、天皇候補に名が挙がらないことも首肯できる。
ちなみに、幕府は旧南朝系皇族に対しては政治的な保安措置として出家させ僧籍に入れる策をしばしば取り、現に恒敦子息・聖承も出家している。しかし恒敦は出家しておらず、終生俗人として生涯を終えたと見られるが、その生活は隠者のようなものであったに違いない。