◇熊沢大然(生没年調査中)/寛道(1889年‐1966年)
西軍南帝の消息情報が絶えて以来、南朝後統、中でも正嫡の小倉宮家はもはや絶家したものと思われていたが、それから400年近くも経た明治時代になって、小倉宮家末裔を称する一族が現れた。それが、愛知在の熊沢家である。このような事態が起きたことには、背景事情があった。
それは前回末尾で指摘したとおり、水戸学派歴史学を通じて南朝正統史観が隆起し、とりわけ尊王攘夷・倒幕運動志士の間に浸透したことで、彼らが担った明治維新後の明治政府重鎮の間でも南朝正統論が有力だったからである。
一方、熊沢家は愛知県下でかなり広大な地所を持つ富農で、総本家ほか複数の本家と分家に分かれる大家系であったが、元来は西軍南帝=信雅王の末裔との家伝を持っていた。そのため、熊沢家は明治三年という早い時期に、総本家などからの代表者らが家伝の真実性の認知を求める請願書を明治政府に提出したのである。
しかし、この主張は史料不備を理由に却下となった。ところが、明治二十四年になって、明治天皇は皇室の戸籍に当たる皇統譜に南北朝時代の北朝五代の天皇を加えないという決定を下した。これが意味するのは、南朝を正当な天皇皇統とみなすということである。
自身北朝系子孫である明治天皇がこのような一見自己否定的な決断を下した背後にも、明治政府部内の南朝正統論の影響があったものと見られる。これは熊沢家にとって、新たな挑戦の機会となった。
そこで、本家の一つの当主であった大然を中心に、明治末になって、改めて皇統認定の請願書を作成、一部の華族の支援者まで得て、時の内大臣兼侍従長で明治天皇の最側近であった徳大寺実則の手に渡らせることに成功した。
しかし、これも実を結ぶことなく、大然は没し、跡は分家から養子に入った寛道が継ぐこととなった。寛道は熊沢家の主張をより鮮明にし、大胆にも自ら皇位を請求するまでになった。戦前には、みだりに皇位を請求するような行為は、当時の刑法に定められていた皇室に対する不敬罪に問われる恐れがあった。しかし、寛道はそうした危険を負いつつ、上申書を近衛文麿や東条英機といった総理経験者にまで送り続けるが、不敬罪での立件も含め、何らの反応もなかった。
転機は、敗戦後の連合国軍による占領であった。当時、名古屋で営んでいた雑貨店を戦災で失った寛道は連合国軍最高司令官マッカーサー宛てに請願書を送った。そのことが当時のアメリカの有力大衆誌『ライフ』で大きく取材・報道されたことを契機に日本のメディアも飛びつき、いささか揶揄的に「熊沢天皇」とあだ名され、一躍時の人となる。
こうして支援者や資金も得た寛道は、昭和二十一年に政治団体「南朝奉戴国民同盟」を設立し、全国各地を遊説して自分こそ南朝の正系であることを説いて回った。翌年には正皇党を結成し、党首として選挙に候補者を立てるが、失敗に終わる。
そこで、昭和二十六年には、北朝系の昭和天皇を皇位簒奪者・天皇不適格者と主張して東京地方裁判所に提訴したが、「天皇は裁判権に服さない」という形式的な理由で実質審理に入らないまま、訴えは却下された。
それでも寛道はあきらめず、生涯にわたって自説を主張し続けたが、寛道の皇位請求運動は政治的にも司法的にも実を結ばないまま、世間からも忘れられ、支援者も離れた晩年は借家住まいとなって、昭和四十一年に76歳で世を去った。
皇位請求にまで踏み込んだ寛道は金銭目的から皇族を騙る詐欺師ではなく、強い確信に基づく近現代の南朝再興運動家という風情があったが、熊沢家が根拠としていた系図類の信憑性が学術的に証明されなかった以上、客観的に見て、彼は皇位僭称者だったということにならざるを得ない。
これに対し、政府当局は、改めて南北朝の正統性問題が学校教科書の記述をめぐって政治論争にまで発展したのを契機に、明治四十四年に皇統譜令をもって正式に南朝正統論を採用しつつも、熊沢家の主張については一貫して否定も肯定もしない沈黙の態度を貫いたことになる。
一方で、主流派の歴史学者らは熊沢家の主張を否定する一種の反熊沢キャンペーンを展開した。その筆頭者でもある瀧川政次郎は熊沢問題のような「禍乱」の芽を摘み取るには、後南朝の史実を国民の前にさらけ出すことが最良の策と指摘し、「世間を騒がした『熊沢天皇』を葬らんとして、自分が一生懸命に後南朝の歴史を調べ上げた」とまで述懐している。
瀧川博士は戦前戦後にかけての権威ある法制史家であるが、「後南朝の史実」は信憑性のある史料に乏しく、解明は容易でない。そのうえ、このように歴史研究の目的をあたかも現皇室の権威を守ることに置くのは学術研究目的からの逸脱であり、歴史研究は純粋な学問的探求心から行われるべきものではないだろうか。
その点、西軍南帝は政治的に用済みとなった後、各地を流浪していたから、法体であったとしても、流浪先の何処かで子をもうけた可能性も皆無ではない。特に、幕府が二度にわたり彼を配流しようした東海地方は有力候補地の一つである。熊沢家も東海地方の名望家であった。
いずれにせよ、日本(あるいは海外)のどこかに西軍南帝またはその他の南朝後統末裔が存命している可能性を想定する余地を全否定できるだけの史料が存在しないことも確かである。その意味で、南北朝問題の最終決着はまだついていない。今後、偶発的な新史料の発見が、解明の道を拓くであろう。