歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

関東通史―中心⇔辺境(6)

七 源氏の台頭

 後に関東で武家政権を開く源氏は本来、関西の河内に本拠を持った臣籍降下軍事貴族集団(河内源氏)であり、関東で勢力を持ったのは、むしろ平氏系の集団であった。その体制が変容する最初の契機となったのは、平将門の乱からおよそ100年後の1028年に起きた平忠常の乱であった。
 母方から将門の孫に当たる忠常は房総平氏の祖と目される人物であり、上総、下総から常陸にかけて強大な勢力を張っていたが、何らかの利害対立から国府を襲撃する挙に出て、祖父と同様に朝廷と全面対決することになった。
 この時、当初追討使として朝廷側の討伐軍を指揮したのは、同じ平氏系で鎌倉を本拠とした平直方であったが、忠常の頑強な抵抗を前に苦戦したため解任され、代わって甲斐守源頼信が後任となった。頼信は河内源氏の祖と目される武将であった。
 頼信は戦わずして忠常を投降させ、乱を平定した。すでに挙兵から三年を経過し、忠常の反乱軍が消耗していた事情はあれ、頼信の名声は高まり、何よりも平直方が頼信の子・頼義を娘婿に迎え、本拠の鎌倉を安堵したことは、源氏にとっては、後の関東支配の礎石となった。
 頼義の子が後の鎌倉将軍家の直接的な祖として有名になる源義家であり、義家の曾孫に当たるのが鎌倉幕府を開く頼朝である。この間には浮沈があり、義家没後の河内源氏は当主の不行蹟・不祥事などが重なり、京都では閉塞していた。そのため頼朝の父・義朝は下向した東国で支持基盤を固めた。結果、義朝は保元の乱では軍功を上げて源氏を一時再興したものの、平治の乱で敗死し、実権を掌握した平氏に押さえ込まれることとなった。
 頼朝は平治の乱の際に捕らえられるが、辛くも死罪を免れ、伊豆への流刑処分となり、在庁官人の豪族・北条時政が頼朝の看守役を担った。ここで頼朝が時政の娘・政子と婚姻し、北条氏が源氏の姻戚となったことで、源氏最側近として台頭していくのはよく知られた話である。
 北条氏は平直方の子孫を称したため、公称どおりであれば、平氏一族が源氏に寝返ったことになるが、時政以前の系譜は不詳であり、直方流は仮冒の疑いが強い。ただ、当初は頼朝の看守役を任せられたことからも、平氏支持者であったことは確かであろう。
 ともあれ、京都で権勢を誇った平氏にとっては、有能な頼朝を処刑せず、流刑にとどめたこと以上に、同族の坂東平氏の統制に意を用いなかったことが禍根となった。すでに源氏支持者となっていたかれらは頼朝の挙兵に当たり、こぞって源氏に協力したからである。

前回記事を読む