歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

関東通史―中心⇔辺境(7)

八 鎌倉幕府の成立

 源平合戦を制した源頼朝が開いた鎌倉幕府の成立年は、筆者の学校時代には1192年とされ、「いいくにつくろう」という語呂合わせで記憶することが慣例となっていたものだが、近年はそれより早い1185年を成立年とする説が通説化しつつある。
 その理由として、1192年は頼朝が征夷大将軍に任命された年度であるが、それは形式的なことで、幕府の初期の機構は実質上1185年までに出揃っていたため、同年をもって幕府成立年とすべきだという。
 実際のところ、頼朝の政権は彼が倒した平氏政権のように、既存の律令制機構をクーデターで乗っ取るのではなく、関東に全く新しい体制を構築する革命政権のようなものであったため、統治機構も政権掌握後時間をかけて整備されていったものであり、明確な成立年度を確定することは本来困難である。
 いずれにせよ、源氏政権はそれまでの天皇中心の王朝貴族政治に代えて武家が政治を主導する新しい体制であった。その権力中枢も、頼義以来源氏の根拠地となった鎌倉を首都とする関東に置かれたが、このことは、長い歴史的なスパンで見れば、関東が縄文時代以来(!)、再び日本の中心としての地位を奪還したことを意味する。
 とはいえ、発足当初の源氏政権は関東に偏った地方政権の域を出ておらず、頼朝を征夷大将軍に任命した朝廷としても、頼朝に全権を移譲するつもりなどなかった。こうした朝廷と幕府のせめぎ合いが武力衝突に発展した承久の乱までは、幕府が支配する関東と依然朝廷が支配権を残す関西に分裂していたと言ってもよかった。
 一方、幕府の側でも頼朝の死後、側近で舅でもあった北条時政が執権として実権を握った。息子の義時の代には北条氏が世襲する執権が幕府の実質的な最高実力者となり、三代将軍実朝暗殺で源氏宗家が早くも断絶したことから、以後の鎌倉幕府は形だけの摂家・宮将軍を操る北条氏のものとなる。
 前回指摘したとおり、北条氏が公称どおりに平氏系だとすれば、平氏が今度は関東で再び政権を掌握したに等しいことになるが、北条氏の出自は不確かである。しかし、鎌倉幕府の成立には、坂東八平氏のような平氏系氏族が貢献しており、北条氏被官(御内人)となった諸氏にも平氏系が多く含まれていた。
 北条氏主導の鎌倉幕府は、承久の乱に勝利すると、朝廷を統制下に置き、全国的な支配力を確立した。厳密には、関東が中心としての地位を奪還したのは、この時以降と言える。しかし、西の朝廷も失地挽回の意志と能力をまだ完全に失ったわけではなく、北条氏独裁が強まる中で、倒幕の機運も生まれ始めるのであった。

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