歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

関東通史―中心⇔辺境(5)

六 関東武士団の形成

 平安朝を揺るがせた平将門の乱が起きた10世紀前半から源氏が関東に武家政権を樹立する12世紀末までには、200年以上のギャップがある。しかし当然ながら、平安貴族制社会から突如武家支配が生まれたのではなく、この二世紀以上の間に、関東では重要な社会変動が起きていた。
 将門の乱が鎮圧されても、坂東平氏全体が崩壊したわけではなかった。特に将門の叔父に当たる平良文を祖とする一族からは「坂東八平氏」と呼ばれる諸族が関東一円に分立し、前武家的な軍事貴族に成長していった。中でも古来の銅産地・秩父を拠点とした秩父氏は前九年の役及び後三年の役で功績を上げて源氏に認められ、武蔵国在庁官人の頂点に就き、武蔵武士団の統率者となった。
 武蔵国は馬の産地でもあり、多くの牧を擁し、牧の在地管理人層の中から武装・騎乗する武士団が発生していったと見られる。かれらは、後世「武蔵七党」と称される婚姻関係で結ばれたいくつかの中小武士団を形成するようになるが、その上部に秩父氏(秩父党とも)のような軍事貴族が統率者として位置し、戦時動員をかける仕組みが出来上がっていく。
 「武蔵七党」は正確に七つの氏族から成るわけではないが、特に武蔵国北部(現埼玉県本庄市児玉郡)を本拠とした児玉党を最大とし、横山党、猪俣党、村山党、野与党、丹党、西党の七党が代表的な武士団である。
 秩父氏―嫡流は河越(川越)に拠点を移し、河越氏を名乗る―は自然の要害である秩父に源流を持つ入間川(荒川)から東京湾岸に至る川筋を領域的に支配し、強大な勢力を築いたのに対し、平良文の孫に当たる平忠常を祖とする一族は坂東平氏本来の地盤である房総半島を支配し、上総氏や千葉氏など「房総平氏」と呼ばれる諸族を出した。
 こうして関東武士団の上部組織を形成した坂東平氏は、間もなく王都の京都で政治の実権を握る伊勢平氏とも同族であるが、皮肉にも、伊勢平氏と対立することになるもう一つの臣籍降下軍事貴族集団・源氏の支持者として、その配下に組み込まれていくのであった。

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