歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

インドのギリシャ人(連載第4回)

Ⅲ メナンドロス王の登位と全盛

 

 アポロドトス1世がインドにおけるギリシャ人王朝をいちおう樹立しても、そのまま子孫が王位を継承していく安定的な王権を確立することはできなかった。インドのギリシャ人はよそ者ということもあったが、それ以上に、当地のギリシャ人の同士討ち的な覇権争いや権力闘争が絶えなかったからである。
 そのため、錯綜したインドのギリシャ人王朝の歴代王について紀伝的にまとめることはほぼ不可能であり、推定在位期間が重複することもしばしばであるが、確かなことは、インドのギリシャ人王朝で最盛期を築いたのは、紀元前160年もしくは150年頃からおよそ20年ないし30年間在位したメナンドロス1世であるということである。
 とはいえ、メナンドロス1世が登位した経緯も不確かである。メナンドロス1世はアンティマコス2世から王位を継承したとされるが、両王の続柄は不明である。おそらくは息子ではなく、先王の親族としても傍系と見られる。
 メナンドロス1世は今日のパンジャブ州シアールコートに比定されるサーガラを王都に定めたが、一説によれば、この地はメナンドロス自身の出身地という。ただし、サーガラの現在位置については異説もあり、確定しない。
 メナンドロス1世は武略に長け、アーリア人の本拠地であるガンジス河流域まで侵出する構えを見せ、アヨーディヤーやパータリプトラのようなアーリア人の古都も征服し、インド・ギリシャ人王朝至上最大の版図を獲得した。
 メナンドロス1世の威令と財力は、その鋳造硬貨がブリテン島のウェールズからさえ出土していることや、王の死後も200年近く硬貨がインドで使用され続けたことから、地理的にも時間的にも強かったことが窺える。
 他方で、メナンドロス1世は19分野の学芸を修めたという教養人でもあり、インドの高僧ナーガセーナとの仏教哲学的な問答が仏典『ミリンダ王の問い』として残されている。彼は言わば文武両道の慈悲深い君主として、後代の帝政ローマ時代のギリシャ人著述家プルタルコスによっても理想化されている。
 メナンドロス1世に強い関心を寄せたプルタルコスは、王の最期についても言及している。それによると、王が陣中で没した後、遺骨を欲しがり争奪した諸都市の間に遺骨が分配され、それぞれで納骨されたという。他方、上掲『ミリンダ王の問い』は、仏教に改宗したメナンドロスは王子に生前譲位し、入滅したとするが、これには仏教的脚色が感じられる。
 実際のところ、晩年のメナンドロス1世は内乱に見舞われていたと見られ、陣中での死没説のほうが現実味がある。その死後は王妃アガトクレイアが女王として継ぎ、王子のストラト1世の即位につなげるものの、政敵ゾイロス1世の対立王権が並行するなど、インド・ギリシャ人王朝はまたも混乱に陥るのである。

弾左衛門矢野氏列記(連載第3回)

二 矢野弾左衛門集季(?~1640年)

 

 弾左衛門を先代から襲名した最初の世代となる2代目弾左衛門は幼名を小次郎といい、次男と見られる。その点、初代には関ヶ原の戦い当時15歳の小太郎という長男と見られる一子があって、天然痘に感染したが、白山神社に祈願したところ快癒したので、以後、弾左衛門家は白山神社を信仰したとの逸話が残されている。
 この助かった長男のその後は不明であるが、結局は夭折したのかもしれない。いずれにせよ、弾左衛門家ではしばらく次男の相続が続く。偶然にしては連続しているので、何らかの理由で次男相続が慣例化されていたとも考えられるが、確かではない。
 いずれにせよ、2代目弾左衛門を襲名した小次郎=集季は初代に比べれば、その輪郭がいくらかくっきりと見え始める。2代目の時代は、幕府でも2代目徳川秀忠から3代目家光の時代にかけての時代に相当する。
 この時代に幕府の職制もようやく整備されてきたのに対応し、弾左衛門の役目も明確にされてくる。それを象徴するのが、江戸町奉行から「内記」の内証名を下賜されたことである。内証名は私文書の署名に使用する私的な通称ではあるが、これを町奉行から下賜されたことは弾左衛門が正式に町奉行配下に組み込まれたことを意味する。
 こうした栄誉に浴した契機は、家光の日光東照宮参詣に際して、集季が配下に諸侯の内情を探索させる間諜の役を果たしたことへの報償とされている。長吏(えた)が対諸侯の諜報活動をしたという話は誇張に思えるが、元来、長吏村はしばしば街道沿いに配置され、往来を監視する任務も負っていたことを考えれば、2代目が同様に将軍の日光往還路の監視任務を担った可能性は十分にある。
 さらに、経済的な面でも、2代目は家業である灯心細工を江戸城に上納し、扶持を認められている。扶持といっても正式に御家人となったわけではなく、えた身分に変わりないが、18世紀に入って弾左衛門家が灯心原材料となる藺草の専売権を認められ、武家の扶持500石相当とされる収入を得る基盤を築いたことはたしかである。

 


三 矢野弾左衛門集春(?‐1669年)

 

 2代目集季は23年間在職し、将軍家光在任中の寛永十七年(1640年)に没した。その跡は次男の助右衛門が継ぎ、3代目弾左衛門集信(後に集春に改名)となった。3代目は歴代弾左衛門で三番目に長い29年間在職し、弾左衛門家の権勢を確立した。
 3代目時代で最も大きな出来事は鳥越から浅草に転居を命じられたことである。これは鳥越刑場が浅草に移転したことに伴う措置で、刑吏を務める弾左衛門の在所も新設刑場のそばに移されたのである。
 結果として、浅草北部に弾左衛門の役宅を中心とする弾左衛門囲内(かこいうち)と呼ばれるえたの指定居留地が設定され、1万3千坪余りの狭小な被差別民ゲットーとなった。しかし、弾左衛門役宅は敷地面積700坪余り、書院や庭園も付属した武家屋敷風のもので、一族専用の菩提寺(本龍寺)まで擁した格式からすれば、中小旗本級に匹敵した。
 その権勢は強く、関八州のえた/ひにんの指揮監督に加え、当時は社会的に下層民とみなされていた役者を含む各種の芸能者の支配にも及んだ。それを象徴する出来事が、3代目晩年の寛文七年(1667年)に起きている。
 弾左衛門は管内での芸能興行に際して許認可権を持ち、その際に櫓を組む手数料として櫓銭を徴収していたところ、幕府の許可を得た能役者の金剛太夫弾左衛門には無許可で勧進能を公演しようとしたのに対し、弾左衛門は大勢の手下を公演会場に乱入させ、犬の皮を投げ込むなど上演を力づくで妨害する強硬手段に出たのであった。
 これは老中が介入する訴訟沙汰となったが、時の老中は弾左衛門を勝訴させ、金剛太夫側に注意処分を下した。一介の芸能興行に幕閣が介入したのは、事が下層民の身分秩序に及ぶ事案であったからであり、過剰な権力行使に出た弾左衛門に左袒したのも、当時の幕閣が身分秩序を重視したためと考えられる。
 このように、弾左衛門は仁義を通さない支配下に対しては、やくざまがいの殴り込みも辞さなかったため、町人からは畏怖される存在となったが、一方では江戸における困窮者救済を担う福祉の顔も持っていた。
 それを象徴するのが、3代目中期の明暦三年(1657年)に起きた明暦の大火に際して、幕府から被災者への炊き出しを命じられた弾左衛門が、配下のひにんを指揮し、3000人余りのひにんを動員して被災者支援に当たったことである。これを機に、弾左衛門役所は自ら福祉業務を行うことのなかった町奉行所に代わって、江戸の福祉事務所のような役割も担うようになる。
 ちなみに、明暦大火では大量の焼死者の遺体の収容と埋葬も弾左衛門が指揮し、これを機に焼死者の埋葬のため建立された万人塚を基に浄土宗寺院・回向院が開かれたが、後に千住小塚原に刑場が移設されたのに伴い、回向院(分院)持所が刑死者埋葬場として弾左衛門に譲られている。
 こうして、先代の在職期間と合わせた通算52年は長吏頭・矢野弾左衛門家にとっては権勢と繁栄の基礎を築いた半世紀だったと言える。とはいえ、あくまでその身分は一般人との交際を禁じられた不可触民のえたであり、公式役職名としては「えた(穢多)頭」と呼ばれ続ける。

クルド人の軌跡(連載第6回)

二 クルド人の全盛

アイユーブ朝の短い天下 
 サラーフッディーンが創始したアイユーブ朝は、彼の死後もエジプトを基盤に版図を拡大し、シリア、パレスティナ、イエメン西部にもまたがる超域的な領域国家に成長した。これはクルド人が世界史の中で主役を演じたほぼ唯一の機会であったが、それが故地から遠く離れた場所においてであったのも皮肉である。
 しかし、アイユーブ朝は長続きしなかった。その要因として、サラーフッディーンの死後間もなく王朝は彼の兄弟ら親族によって簒奪、分割されたことが大きい。その点では、サラーフッディーン後継者と目されていた長男アル‐アフダルが酒色に溺れる統治不適格者であったことは問題であった。
 彼に代わって第2代スルターンとなった次男のアル‐アズィーズ・ウスマンは民衆にも評判の良い公正な統治者となったが、財政難に苦しんだうえに落馬事故により在位5年で不慮の死を遂げた。その跡を幼い息子アル‐マンスールムハンマドが継ぐが、在位2年で野心的な叔父アル‐アーディルによって簒奪された。
 こうしてサラーフッディーン直系は早くも絶え、本拠のエジプト及び第二の拠点とも言えるシリアのダマスカスでは以後、アル‐アーディルの子孫が権力を世襲していく。また、イエメンもサラーフッディーンの弟とその子孫が掌握する。最終的に7つに拡大した地方政権は次第に分権性を増し、半独立状態となっていった。
 もう一つの要因は、奴隷傭兵マムルークの増長である。アイユーブ朝クルド系と言ってもクルド人はアイユーブ家と近衛の戦士らのみであり、領民の大半を占めるアラブ系先住民を統治し、かつしばしばアイユーブ家に不忠であったクルド人を統制するためにも傭兵の存在が不可欠であった。
 そのために、王朝はテュルク系の奴隷兵士マムルークを雇い入れた。これはバグダードアッバース朝の軍事政策を踏襲したものと言える。その結果、アッバース朝で起きたのと同じことが起きた。すなわち、マムルークの増長である。
 とりわけ内憂外患に見舞われたエジプト・アイユーブ家の第7代アッ‐サーリフはマムルークを大量に購入し、ナイル河中洲に専用の兵舎を建設したため、これを基盤にバフリー(大河:ナイルの別称)・マムルークと呼ばれる軍団が形成された。
 バフリー・マムルークは間もなく軍閥として台頭、1249年の第7回十字軍を撃退し、総帥のフランス国王ルイ9世を捕虜にした成果をもとにクーデターを起こし、すでに弱体化していたアイユーブ朝を打倒したのであった。その後に成立したマムルーク朝支配下で、アイユーブ系地方政権は付庸国として命脈を保つのみとなった。
 こうしてアイユーブ朝は100年は続かず事実上滅亡したが、その支配下で首府エジプトはファーティマ前王朝時代に染まっていたシーア派からスンナ派への復帰を遂げ、神学校(マドラサ)を通じたスンナ派教学と学芸の振興も見られた。こうした宗教的・知的遺産とともに、アイユーブ朝治下で開発が進んだ灌漑農業もマムルーク朝を経て永続的に継承されていった。
 アイユーブ朝の滅亡後、クルド人が再び歴史の主役となることはなかったが、16世紀にイランに現れ大国となるシーア派サファヴィー朝は王家遠祖がクルド人と見られている。しかし、この王朝はペルシャ化しており、おそらく王家もクルド系の自意識を持っていなかったので、「クルド系王朝」とみなすことは失当であろう。