歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

ユダヤ人の誕生(連載最終回)

Ⅵ ユダヤ人の確立

(18)「パレスチナ人」の分岐
 古代ユダヤの亡国後、相当数のユダヤ人が海外に離散し、ディアスポラとなったが、ローマ帝国はかつてのアッシリア帝国のように強制移住政策を採らなかったから―ただし、相当数のユダヤ人捕虜を奴隷として売却した―、故地に留まったユダヤ人も少なくなかった可能性はある。
 そうした残留ユダヤ人がどの程度存在したかは不明であるが、かれらはバル・コクバ大公国崩壊後、ユダヤの名を抹消され、シリア・パレスチナと改名されたローマ属州民として生きることを強いられた。4世紀にローマ帝国キリスト教を容認した後、パレスチナではキリスト教寺院の建設が始まり、キリスト教中心地となる。アエリア・カピトリーナは再びエルサレムに戻されたが、今日まで続くキリスト教聖地ともなった。
 反キリスト的なユリアヌス帝時代にはユダヤ人のエルサレム立ち入りが解禁され、ユダヤ教神殿の再建許可すら出されたこともあるが(未実現)、長いキリスト教化の過程でキリスト教に改宗するユダヤ人も相当数輩出したと考えられる。
 ローマ帝国の分裂後、パレスチナを支配した東ローマ帝国ビザンティン帝国)の力が衰えると、アラビア半島から勃興してきたアラブ人の活動が活発になり、特に預言者ムハンマドが創始した新たな一神教イスラームを掲げる勢力が台頭する。イスラーム勢力は7世紀以降、中東各地に遠征し、638年にはエルサレムを征服、ここを聖地とした。
 こうしてイスラーム教が到達すると、パレスチナは宗教的‐文化的にも言語的にも急速にアラブ‐イスラーム化される。その結果、今日「アラブ系」とみなされる「パレスチナ人」が誕生したとされるが、真相はさほど単純ではなさそうである。
 実際、今日の遺伝子系譜学的研究によれば、イスラエルユダヤ人とパレスチナ人の相当部分はY染色体の遺伝子プールを共有し合っているという。このことは、イスラーム勢力のパレスチナ征服後、同地の残留ユダヤ人の相当数が一部アラブ人とも通婚しながら、イスラーム教に改宗したことを物語っている。極端に言えば、「パレスチナ人」とはイスラームに改宗したユダヤ人である。
 もっとも、今日イスラエル人と対立的に用いられる「パレスチナ人」という民族主義的概念は近代ナショナリズムに由来するもので、アラブ民族主義の派生物であるが、その土台となる中世以降のパレスチナ住民の基層は、元をただせばユダヤ人であったとも考えられるのである。
 かくしてキリスト教徒の分離に続き、イスラーム教改宗によって「パレスチナ人」が分岐したことで、離散してユダヤ教を強固に保持する「ユダヤ人」の概念と宗教‐民族意識はいっそう強く確立されていったことであろう。ことに、中東故地への帰還を目指すシオニズム運動は、近代的なユダヤ民族主義を確立するうえで決定的であった。
 ユダヤ人概念は欧州をはじめとする離散地での長い差別・迫害の歴史—その究極がナチスによるホロコースト—、一方では実業界や知識界での活躍の歴史の中でさらにいっそう強化され、ついに中東故地への帰還国家イスラエルの成立をもって、ユダヤ国家は再生を果たすのである。