歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

白川郷内ケ島氏興亡物語(連載第3回)

三 内ケ島氏と正(照)蓮寺

 

 白川郷内ケ島氏を語るうえで欠かすことができないのは、かつて白川郷にあった一向宗寺院正蓮寺との因縁である。正蓮寺は鎌倉時代の建長年間に親鸞の直弟子・嘉念坊善俊が建立した浄土真宗寺院である。
 その後、正蓮寺は地元に深く根付き、飛騨の一向宗本拠として武力も擁する大勢力に成長した。内ケ島氏が入部してきたのは、ちょうどそうした時期に当たっていた。その頃、正蓮寺の住職・教信が還俗して三島将監を称し、土豪的な武将として活動を開始していた。
 新入りの内ケ島氏が白川郷で支配を確立するうえで三島将監と正蓮寺の勢力は重大な障害であったし、一方の正蓮寺勢にとっても外来の内ケ島氏の存在は邪魔であったから、両者の対決は必然であった。
 こうして、文明年間から内ケ島勢と正蓮寺勢の武力衝突が起きる。衝突の年度に関しては諸説あるが、一般的には文明七年(1475年)、内ケ島為氏に率いられた内ケ島勢は激戦の末、三島将監とその弟で寺務を司っていた明教の兄弟を討ち取ることに成功したとされる。
 この後、正蓮寺残党の一向宗門徒一向宗総帥の本願寺法主蓮如に依頼して内ケ島氏との和睦を策した。外来者の内ケ島氏としても支配を確立するうえで地元の一向宗門徒の潜勢力は無視できなかったと見え、最終的には正蓮寺が内ケ島氏配下となる条件で和睦に応じた。
 しかも、為氏は自身の孫娘を明教の遺子・明心に嫁がせたうえ、寺号を照蓮寺に改称して寺院の再興を許したのである。これはもはや単なる和睦にとどまらず、正連寺改め照蓮寺との同盟に近い関係の構築であり、内ケ島氏が一向宗と手を結んだことを意味する。
 実際、内ケ島氏家中にも照蓮寺門徒が増加したばかりか、為氏から当主を継いだ雅氏自身も一向宗に帰依し、総本山の本願寺に加勢して本願寺が関わる近隣各地の一向一揆紛争に出兵するまでになったのであった。