歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

ユダヤ人の誕生(連載第12回)

Ⅳ 捕囚と帰還・再興

(11)バビロン捕囚と帰還
 南王国滅亡後のバビロン捕囚はユダヤ民族の滅亡をもたらさず、それどころかかえって民族的意識の高揚を結果することとなった。南王国の支配層はユダ部族であったから、ユダヤ民族とは厳密に言えばこの南王国民のことであって、便宜的に北王国を構成した10部族を含めて「ユダヤ民族」と包括してきた本連載のこれまでの記述は正確さに欠けることになる(10部族も包括する場合は「イスラエル民族」とするべきか)
 いずれにせよ、バビロン捕囚で高揚した民族意識の下、旧約の原初的な基礎資料の作成も開始される。ここでユダヤ人がメソポタミアの中心部に囚われたことは、旧約にメソポタミア的な性格を濃厚に刻みつけたことと考えられる。
 実際、ノアの箱舟説話も、チグリス・ユーフラテス河の氾濫に由来するシュメール人以来の古い洪水伝承に取材したものであるし、ユダヤ民族の祖アブラハムがシュメール時代の古都ウルの出身とされたのも、旧約の基礎資料がメソポタミアの地で生み出されたことを示唆する。
 この捕囚はしかし、そう長く続かず、およそ60年で終結した。おそらくこの幸運も、ユダヤ民族が保持された大きな要因であろう。もし捕囚が恒久的であったら、いかに民族意識が高揚しようとも、北王国民のように、世代を追うごとに周辺民族との同化・消滅は避けられなかっただろうからである。
 捕囚解除・解放の契機となったのは、新バビロニアに取って代わったアケメネス朝ペルシャのキュロス2世の命であった。ペルシャの民族政策は比較的寛大であり、ユダヤ民族にも故地帰還が許されたのであった。
 とはいえ、これはあくまでもペルシャ支配下での留保付き自由にすぎず、ユダヤ民族の王国再興が許されたわけではない。ユダヤ民族帰還後のカナン地方ではペルシャ時代の都市遺跡が少ないという考古学的事実も、この時代、ユダヤ民族固有の都市文化が閉塞していたことを暗示する。
 それでも、帰還後のユダヤ民族は早速新バビロニアによって破壊・放置されていたエルサレム神殿を再建し、宗教的な再興のきっかけを得た。いわゆるユダヤ教はバビロン時代に整理された律法や儀典をベースに、実質上このペルシャ支配時代に整備されていったと考えられる。
 しかしこの先、ユダヤ民族はさらにペルシャに取って代わったマケドニア帝国とその後継者たるプトレマイオス朝セレウコス朝の異民族支配を順次受け続けることになるが、この時代はいわゆるヘレニズム時代であり、ユダヤ固有のヘブライズムとヘレニズムの出会いと接合という文化的には豊かな産物を生み出すことになる。