歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

ユダヤ人の誕生(連載第13回)

Ⅳ 捕囚と帰還・再興

(12)独立運動とハスモン朝
 長いセレウコス朝シリア支配の時代、同朝第8代君主アンティオコス4世がエルサレム神殿で異教の祭儀を執り行うという冒涜行為を犯したとされることを契機に、前167年、モディンという小村の祭司マタティア一家の率いる反シリア抵抗運動が勃発する。
 マタティアは抵抗運動渦中の翌年病没するが、後を息子ユダ・マカバイが継ぎ、抵抗は継続される。ユダはシリアに対するゲリラ戦を指揮して戦果を挙げ、いったんはユダヤ民族の宗教的自由を勝ち取るが、再びシリアと戦争状態となって戦死した。
 後を継いだ弟のヨナタンはシリアと講和して大祭司に任ぜられ、さらにその後継者となった弟シモンの時に独立を回復した。前142年のことである。これはユダヤ民族にとってはバビロン捕囚以来、およそ450年ぶりの独立回復であった。
 シモン政権は対外的にローマからも承認され、対内的にもシモンはユダヤの民族指導者兼大祭司としての地位とその子孫への世襲も承認されたことから、実質上ここに一族が出自したハスモン家の王朝が成立した。そしてシモンの孫アリストブロス1世の時には正式に王を名乗るようになった。
 こうして新たに登場したユダヤ人の独立王朝ハスモン朝は祭司一族が創始した祭司王朝であって、祭司=王という神権政治を特徴とした。これは従来、世俗の王と祭司を分離してきたユダヤ的伝統に反するうえ、小村の一介の祭司一族から出たハスモン朝支配の正統性は終始疑問視された。
 しかし、ハスモン家が独立運動に果たした役割の偉大さと忠実な預言者が現れるまでの間という「暫定政権」の論理とによって、ハスモン朝は民衆からもひとまず受容されたのである。
 結局のところ、ハスモン朝は以後約一世紀にわたり世襲王朝として存続していくこととなった。そして祭司王朝としての性格からしても、ハスモン朝治下の決して長くはない時代は、ヘレニズムの影響下にユダヤ教の大きな発展期ともなった。前2世紀後半期になると、セレウコス朝の衰退に伴い、領土も北方へ拡張され、旧南北王国時代の全領域に近い範囲に及んだ。
 だが、ハスモン朝は前1世紀に入ると王位継承をめぐる内紛などから内政が混乱し始め、そこへ中東への勢力圏拡大を図るローマ帝国の進出も重なり、弱体化する。
 熾烈な王位継承抗争の中、第10代ヨハネヒルカノス2世側近のイドマヤ人将軍アンティパトロスとその息子ヘロデが台頭してくる。結局、ハスモン朝はローマに巧みに取り入って後ろ盾とした将軍ヘロデのクーデターにより前37年、滅亡に追い込まれることとなった。