歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

ユダヤ人の誕生(連載第17回)

Ⅵ ユダヤ人の確立

(16)同系民族の征服
 ユダヤ人という民族概念は血統的なものではなく、宗教的なもの、すなわち「ユダヤ人=ユダヤ教徒」である。こうした宗教的民族概念が形成されたのは早くともハスモン朝全盛期と見られ、それ以前は血統的民族概念としての「イスラエル人」という概念しかなかった。
 決して長くはなかったハスモン朝の全盛期は、前134年から104年まで30年間の長期治世を保ったヨハネヒルカノス1世とその二人の息子アリストブロス1世及びアレクサンドロス・ヤンナイオスの時代であった。この通算して約60年の間、ハスモン朝はイドマヤ人やサマリア人といった元来は同系の諸民族を次々と征服し、しかもユダヤ教への強制改宗を断行した。
 結果、イドマヤ人は比較的早くにユダヤ化されていったが、後にハスモン朝自体がユダヤ化したイドマヤ人ヘロデのような人物に王権を簒奪されたのは、歴史の皮肉と言える。しかし、前に指摘したとおり、異民族ヘロデ大王こそは最初の宗教的な概念としての「ユダヤ人」を象徴する人物だったのである。
 これに対して、サマリア人は簡単に同化されなかった。前述したように、サマリア人アッシリアによって北イスラエル王国が滅ぼされた後、アッシリアの民族同化政策に基づき、その王都であったサマリアを中心に、移住してきたアッシリア人その他の異民族と残存ユダヤ人(イスラエル人)が通婚・同化することで形成された新しい民族であった。
 サマリア人は宗教的にも異教の影響を強く受け、ユダヤ教からは別宗派とみなされるようになった。かれらはサマリアゲリジム山を宗教上の聖地としたが、ヒルカノス1世は前128年、このゲリジムの神殿を攻撃、破壊した。それでも降伏しないサマリア人を完全征服するため、ヒルカノスは前110年から109年にかけて大規模なサマリア遠征を行い、サマリア市街を壊滅させた。
 これによって、サマリアもハスモン朝ユダヤ王国の版図に組み込まれたが、サマリア人は迫害の中、なおも独自の信仰を守り続け、今日に至っている。
 強盗に襲われ、負傷したユダヤ人旅行者をユダヤ人の祭司や律法学者らが見て見ぬふりをするなか、一人のサマリア人が介抱し宿屋の費用まで立て替えたという新約に見える有名な「善きサマリア人」のたとえは、イエスの時代にあってもサマリア人が一般的には善からぬ民族として忌避されていたことを裏書きしている。
 実際のところ、ユダヤ教祭司一族が創始したハスモン朝自身、ヘレニズムの強い影響下にあり、ユダヤ教保守派のパリサイ派からは批判され、ためにヤンナイオスの時代にはパリサイ派との内戦まで招いたほどであったが、ユダヤ人概念がハスモン朝下でサマリア人をはじめとする非ユダヤ系民族に対する征服・迫害を通じて自覚的に形成されていったことはたしかである。
 時代下って、世界各地に離散した後、自らが被迫害民族となるユダヤ人という民族的アイデンティティが、その出発点においては異民族征服・迫害を通じて形成されていったというのも、歴史の皮肉であったろう。