歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

ユダヤ人の誕生(連載第11回)

Ⅳ 捕囚と帰還・再興

(10)二度の捕囚
 ユダヤ民族は、その歴史の中で二度にわたり外国によって集団的な捕囚の身とされる数奇な経験を持っている。その最初は北王国滅亡後の「アッシリア捕囚」(紀元前8世紀代)であった。
 この時は南王国の一部住民と北王国を構成した10部族が帝国各地に強制連行されたが、特に後者はその後も故地への帰還の事実が確認できないということから、「失われた10支族」の伝承を生み、人々のイマジネーションを掻き立ててきた。
 中でも今日アフガニスタンの多数民族であるパシュトゥン人の一部部族がイスラエル人起源との伝承を持つことから、失われた10部族の一部が東へ移住してパシュトゥン人となったとの説も一時有力であったが、今日の遺伝学的研究はパシュトゥン人=イスラエル人起源説には否定的である。
 実際、パシュトゥン人に最も多く見られるY染色体ハプログループはR1a系統であるが、ユダヤ人の場合は、代表的な東方系ユダヤ人(アシュケナジム)と西方系ユダヤ人(セファルディム)両系統ともどもJ1やJ2などのJ系統である。
 その他、アジアやアフリカを中心とする世界の様々な地域に10部族の末裔とする伝承を持つ民族集団が存在するが、遺伝的な系譜を立証できたものはなく、まさに伝承の域を出ない。実は、これらの系譜関係説は現代のイスラエルユダヤ教徒移民受け入れ政策と多分に関連している。
 前回も記したように、10部族が「失われた」のはアッシリアの民族同化政策によって通婚・混血が急速に進み、民族的アイデンティティを喪失したことが大きい。これはアッシリアから強制された政策の結果でもあるが、元来簒奪王朝として出発し、外国の影響を受けて異教的であった北王国の性格の結果でもあった。
 そうした北王国の異教的性格は、北王国の暴君として悪名高いアハブ王の娘アタルヤが南王国に嫁ぎ、息子アハズヤ王が陰謀に巻き込まれて戦死した後、女王に即位した時には南王国にも及びかけたが、アタルヤ女王は間もなく南王国大祭司を中心とする反対勢力によるクーデターで廃位・処刑され、南王国の伝統は保持された。
 これに対して、南王国滅亡後の「バビロン捕囚」(紀元前6世紀代)は、ユダヤ民族を失わせる結果とはならなかったどころか、この苦境はかえって民族的・宗教的覚醒を強める歴史的な契機にさえなった。
 これは新バビロニアが(新)アッシリアとは異なり、強制同化政策を採らず、王をはじめとするユダ王国支配層を首都バビロンに連行し、俘囚として集住させる政策を採ったためでもあった。
 しかし、それ以上に、ダヴィデ、ソロモン王の系譜を引くユダ王国民が元来宗教的によく結束していた結果でもあった。そのため旧王国領にとどまった民衆も、バビロニア統治下で民族的統一を保持し得た。