Ⅱ 上代の女性君主たち
ここで上代とは、壬申の乱を境とする飛鳥時代後期から奈良時代までを指すものとする。この時代は、日本の律令政治が整備され、天皇を君主に戴く王朝政治の基盤が築かれた重要な時代であるが、この時代には持統天皇を筆頭に多くの女性天皇を輩出し、日本の女性君主の歴史における頂点でもあった。そうした意味では、近現代まで含めた日本史上においても独異な時代であったと言える。
一 藤原京時代の実務型女帝
藤原京は短期間で放棄され、平城京へ遷都されたため、その治世の全期間が藤原京時代にかかる女性君主は持統天皇が唯一であるが(異母妹に当たる元明天皇の治世初期も藤原京時代であるが、同天皇の代で平城京に遷都したため、本連載では元正天皇を奈良時代に含める)、持統天皇の特徴はそれ以前の女性君主たちに比べ、実務的であった点にある。
◇持統天皇(645年‐703年)
(ア)登位の経緯
夫の天武天皇が崩御した後、後継に予定されていた皇太子・草壁皇子が即位前に急逝したため、急遽、草壁生母でもある皇后・鸕野讃良[うののさらら]皇女がいったん皇后のまま臨時聴政(称制)を経て、正式に天皇に即位した。
(イ)系譜
いわゆる大化の改新の主役でもあった天智天皇の皇女であり、夫の天武天皇は叔父に当たる。母方祖父は蘇我倉山田石川麻呂で、母方から蘇我氏の血も引く。生母の遠智娘[おちのいらつめ]は、父が謀反の讒言により自害に追い込まれた後、父の屍が斬られたことを知り、悲嘆のあまり死去したとされる。
(ウ)治績
実務能力に長けており、皇后時代から天武天皇の事実上の補佐役を務め、天武時代の遷都計画を継承、日本初の都城である藤原京を完成させたほか、上皇時代には日本初の本格律令法典である大宝律令の制定も指導した。草壁皇子の遺子で孫の軽皇子を後継天皇(文武天皇)として即位させるに際し、立太子・皇位継承の円滑な手続きの先例を作った。上皇としても初例である。なお、皇后称制期には、実子・草壁皇子の即位と即位後の治世を保証するべく、天武崩御直後、皇位継承順位第二位と目された義理の皇子・大津皇子に謀反の罪を着せて処刑している。
(エ)後世への影響
短・中期的には、称徳天皇に至るまで、天武天皇の子孫・親族が天皇を独占する奈良時代につなぐとともに、女帝を多く輩出する一時代を作った。長期的には、都城と律令を通じて、その後の天皇王朝政治の基盤を築いたと言える。さらに、藤原不比等を見出し、重用したことを契機に、以後、藤原氏が国政を掌握する最強門閥に成長する契機を与えた。
※備考
持統天皇は、孫の軽皇子が即位年齢に成長するまでの「中継ぎ」女帝とする見方が長く支配的であったが、実際は上皇時代を含めた13年間で重要な治績を挙げた「本格派」の女帝であったと言える。称号の点でも、天武時代に天皇称号が確立されたとする説によれば、実質的には持統が初の「女性天皇」と呼び得る君主となる。特に、『日本書紀』持統3年8月条に見える「百官、神祇官に会集りて、天神地祇の事を奉宣る。」という記述は持統が招集した宗教会議と呼ぶべき大会議で、ここで朝廷主導の国定神話の内容が討議された結果、天照大神のような女神を神話上の皇祖とする比較的に珍しい建国神話が創造された可能性がある。実務面でも、女性官人で藤原不比等の後妻でもある県犬養[あがたいぬかい]三千代(橘三千代)を重用し、奈良時代に活躍する女性官人の先駆けとしたことなど、持統天皇はある種の先駆的フェミニストであった可能性も想定できる。