歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

パレスティナ十字軍王国史話(連載第8回)

第7話 コンラート1世暗殺事件

 

 パレスティナ十字軍王国女王イザベル1世の二番目の婿モンフェラート侯コンラート1世が共同国王に即位する前に暗殺された事件は、流血沙汰が珍しくなかった中世における未解決殺人事件の一つである。
 事件の外形的な経緯は、1192年4月28日の正午頃、妊娠中のイザベルはハンマーム―イスラーム式浴場が十字軍王国にも存在していたことがわかる―から食事に戻るのが遅れたため、コンラートは親戚の司教の館に食事に行き、帰る途中、二名の暗殺者に脇腹と背中を刺され、死亡したというものである。暗殺者の一人はコンラートの護衛に殺害され、もう一人は拘束された。
 この事件は、パレスティナ十字軍王国がサラーッフッーディーンの攻勢にさらされ、存亡危機にあった時に、王位継承をめぐる対立関係を背景に起きているため、イスラーム勢力と王国内の対立勢力双方に動機があり、黒幕の真犯人を特定することは困難である。
 当時、王国ではエルサレム陥落に責任のあったギー・ド・リュジニャンが王位の放棄を承諾せず居座る中、彼を盟友のイングランドリチャード1世が支持する一方、諸侯は軍事的手腕で名声の高かったコンラート1世を推し、彼をフランス国王フィリップ2世も支持する対立状況にあった。
 そうした中、コンラート1世は1192年4月、諸侯の満場一致による投票で国王に選出された。暗殺事件はその直後に起きた。そこからすれば、動機があるのは、ギーとリチャードということになる。実際、同時代的にはギーとリチャードが最も疑われており、暗殺は両人またはそのいずれかがイスラーム過激派ニザール派に依頼して実行したという説も有力である。
 ニザール派とはイスラムシーア派の分派イスマイル派の中でも特に過激な支分派であり、イランのアラムート城を拠点に独自の勢力を擁し、イスラームスンナ派や十字軍要人の暗殺を繰り広げたとされることから、「暗殺教団」の異名も持つ集団である。
 コンラート暗殺事件当時の指導者はラシード・ウッディーン・スィナーンという人物であり、彼の時代にニザール派は強大化していた。とはいえ、ギーやリチャードとの接点は不明であり、ニザール派への委託殺人という説は確証がない。
 むしろ、当時のニザール派は第三回十字軍への対抗上、本来教義上は対立するスンナ派のサラーッフッーディーンと同盟していたため、その軍事的手腕に脅威を感じたサラーッフッーディーンの依頼でニザール派が暗殺を実行したという説のほうが自然ではある。
 にもかかわらず、リチャード1世関与説が絶えないのは、捕縛された暗殺実行犯が拷問により、リチャードの関与を自白したことによるようである。しかし、中世にはありふれた尋問法であった拷問による自白には現代的な観点から見て証拠能力を認めることはできない。
 リチャード自身関与を強く否定しており、また最終的にコンラートの即位に同意して、ギーには補償措置としてキプロスの王位を斡旋して事態を収めているので、リチャード関与説にも十分説得的な根拠はない。(もっとも、自身の関与を隠蔽するため、事後的にコンラート即位に同意したと考える余地はある。)
 いずれにせよ、コンラート1世の死は十字軍王国を弱体化させ、イスラーム勢力にとって強い追い風となったことは確かである。仮にリチャードが関与していたとすれば、彼は十字軍王国にとっては自滅的な所業をなしたことになる。