歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載最終回)

二十二 高宗・李熙(1852年‐1919年)/純宗・李坧(1874年‐1926年)

 李昰応・興宣大院君(大院君)の項でも先取りしたように、26代高宗は大院君の次男であり、先代哲宗との血縁の遠さからすれば、実質上高宗をもって王朝交代があったとみなしてもよいほどの断絶がある。
 それを裏書きするように、高宗治世の前半期はまず実父大院君、続いて正室閔妃に実権を握られ、国王は名目的な存在であった。実際、高宗は年少で即位したうえ、長じてからも政治的に無関心で、放蕩に興じていたとされる。
 従って、高宗治世の前半期は大院君及び閔妃の項で述べたことがほぼそのままあてはまることになる。高宗が図らずも親政に転じなければならなかったのは1895年、閔妃が殺害された乙未事変以降のことである。
 乙未事変の直後、親露派が巻き返しの対抗クーデター(春生門事件)で高宗を奪還しようとするも失敗、しかし親露派は翌年、再び民衆暴動を煽動する形で決起し、高宗をロシア公使館に逃げ込ませることに成功した。
 こうして親露派は高宗をロシアの庇護下に置きつつ、反露・親日派を粛清排除し、実権を掌握した。この親露政策は晩年の閔妃の路線でもあり、当面これが踏襲された形となった。そのことが、どの程度高宗自身の意思によるものかは定かでない。
 ともあれ、一国の王が外国公館内にあって執務を行なうことは、もはや独立性を喪失したに等しく、この親露期の朝鮮王朝は事実上帝政ロシアの属国であった。この状況に対し、立憲君主制への移行を目指す開化派が独立協会を結成して対抗した。
 その結果、高宗は97年、ロシア公使館を出て王宮に帰還、同年には国号を大韓帝国と改称し、自身が改めて初代皇帝(光武皇帝)に即位した。高宗光武帝立憲君主制こそ受け入れなかったが、一定の近代化改革に乗り出す積極姿勢を見せるも、改革をやりぬくための財政基盤と手腕が欠けていた。
 そうした中、朝鮮に対する支配力の奪回を虎視眈々と狙う大日本帝国帝政ロシアに対する攻勢を強め、両国の緊張関係はついに開戦につながる。この戦争は大方の予想に反し、日本の勝利に終わった。
 この間、日本は戦時中の1904年には第一次日韓協約をもって大韓の内政外交に関与する権限を獲得し、これを米国にも認めさせることに成功していた(桂‐タフト密約)。その延長上で、日露講和条約ポーツマス条約)をもって日本の大韓に対する優越権を承認させた。
 この第二次日韓協約は大韓を事実上日本の保護国とするもので、もはや完全な併合まであと一歩であった。こうした日本の攻勢に対し、高宗側も抵抗を示し、07年には第二次協約の無効性を主張する密書をハーグ万国平和会議に送ったが、当時の帝国主義的な国際法常識に照らし、高宗側の主張は容れられず、この密使事件はかえって日本側の不興を買い、高宗は親露派から親日派に転じていた李完用総理の画策により退位に追い込まれることになった。
 こうして、最後まで優柔な高宗はその40年以上に及ぶ長い治世を通じてほとんど主体性を発揮することはなかった。高宗に代わって2代皇帝に即位したのは、閔妃との間の長男純宗であった。
 純宗はすでに30代に達していたが、何の実権も与えられず、日本とその代理である親日勢力の傀儡皇帝にすぎなかった。そうした中、日本は第三次日韓協約をもって大韓の国政全般の干渉権を手中にし、軍の解散にまで及んだ。
 これに対する大韓義勇軍人による抗日闘争(義兵闘争)が激化する中、日本は完全な併合を急ぎ、1910年、条約をもってついに正式の併合を実現させた。皮肉にも、自主独立への決意を込めて大韓帝国に再編してわずか13年での亡国であった。
 併合後、旧李王家は法的には日本の王公族として、皇族に準じた地位を与えられ、高宗は徳寿宮李太王の称号で19年まで、純宗も徳寿宮李王の称号で26年まで存命したが、もはや形ばかりの存在であった。
 純宗には子がなく、最後の皇太子となった高宗七男李垠は日本皇族梨本宮方子と婚姻し、その間に生まれた次男李玖が次代当主となるも、子はなく、この韓日混血王統は2005年の玖の死去により断絶した。なお、現在の李家は一般公民化したうえ、高宗五男の庶流系統が継承している。

 

伊藤博文(1841年‐1909年)

 長州閥の明治元勲かつ明治政府の初代内閣総理大臣として日本ではよく知られる伊藤が大韓帝国と改称していた朝鮮王朝と直接の関わりを持ったのは、最晩年の1905年、第二次日韓協約を受けて初代韓国統監に就任した時である。
 元来、伊藤は明治初期のいわゆる征韓論争に際しては征服反対・内治重視派に与しており、明治末の韓国併合論争に際しても国際協調を重視しつつ、併合でなく韓国の国力がつくまでの保護国化にとどめるという穏健な立場を主張していた。
 とはいえ、保護国化も完全な独立を認めず、ある種の属国として支配下に置く帝国主義的な手段であって、伊藤が反帝国主義者であったことにはならないが、大陸侵出の一環として韓国併合を急ごうとする維新以来のライバル山縣有朋ら陸軍勢力とは一線を画していたことは間違いない。
 こうした伊藤の韓国「保護」の意志は相当に固かったらしく、すでに四度も首相を経験した元老でありながら、あえて格下かつ海外常駐となる初代の韓国統監職を引き受けたことにも現れている。
 もっとも、時の韓国皇帝・高宗が日韓協約の無効を訴えたハーグ密使事件を受けても変化しなかった伊藤の穏健な立場は、韓国内での抗日義兵闘争の激化を契機に転換したとも言われる。しかし、伊藤が併合を声高に唱えた形跡は見られず、義兵闘争は併合派が併合を急ぐうえで障害となりかねない伊藤に辞職を促す口実として利用されたものと考えられる。
 実際、時の韓国併合派かつ陸軍重鎮でもあった桂太郎首相から併合の最終解決策を提示されると、伊藤はこれを受諾し、保護を前提とした統監職を辞し、併合へ向けたプロセスにも協力したのであった。その四か月後、伊藤は韓国人ナショナリスト安重根によりハルビンで暗殺されることとなる。
 安は独立運動家を多く輩出する開化派両班一族の出であり、初代韓国統監だった伊藤を日本帝国主義の象徴として標的にしたのだったが、おそらく元来日和見主義的な伊藤自身は最後まで併合強行派ではなかったのであり、独立派の真の敵は別にいたのである。

◇宗武志(1908年‐1985年)

 近世に朝鮮との通商を一手に担いながら、明治維新による廃藩後はその役目を終え、日本の一華族(伯爵)となっていた宗氏であったが、韓国併合後、旧朝鮮王家と姻戚関係を持つ数奇な運命を得た。1931年、時の宗氏当主である宗武志伯爵に高宗の王女・徳恵翁主が嫁いだのである。
 通商関係を独占していた時代にも縁戚関係を持つことがなかった両家が関係の途絶えた近代になって縁戚関係を生じた背景には、上述のように高宗七男李垠が日本皇族梨本宮方子と通婚したのと同様、日韓併合下で日韓上流階層の血統的一体化も演出するという政治力学が働いたのかもしれない。
 徳恵翁主は高宗が日韓併合後、日本王族徳寿宮李太王熈と改称した最晩年の1912年に生まれた娘で、父は幼少の頃に死去している。一方、武志は対馬藩最後の藩主だった宗重正の甥に当たり、父は旧上総久留里藩主黒田家の婿養子に出ていたが、重正の子が継嗣なく死去したため、宗氏当主の家督を継いだ。
 併合の象徴のような宋‐李婚姻はしかし、徳恵の精神疾患のため、不幸な結果に終わった。彼女の病状は長女出産後に悪化し、武志の献身的な介護によっても改善せず、戦後の1955年に離婚、62年に韓国に帰国した(89年死去)。
 ちなみに二人の間の一人娘・正恵は日本で大学に進学、日本人と結婚するが、やはり何らかの精神疾患に悩み、両親離婚の翌56年に遺書を残して失踪、行方不明のまま離婚に至るという二重の悲劇に見舞われている。なお、戦後、英文学者・詩人として身を立てていた武志は徳恵と離婚直後に日本人と再婚し、大学教授・理事として職務を全うしている。