歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版足利公方実紀(連載第2回)

一 足利貞氏(1273年‐1331年)

 室町幕府を開いた足利氏は、清和源氏の流れを汲む源氏一門であり、河内源氏棟梁・源義家の四男・義国が下野国足利荘を拝領したことで、その次男・義康以降、足利氏を名乗るようになった。このように足利氏は源氏一門とはいえ、傍流であることは否めず、源氏が政権を掌握した鎌倉幕府でも、御家人の立場にあった。
 源氏将軍が三代で途絶え、鎌倉幕府の実権が執権北条氏に奪われても、足利氏に将軍の座が回ってくることはなく、引き続き北条氏に従属した。とはいえ、北条氏との関係は比較的良好で、北条氏の側でも足利氏と歴代にわたり姻戚関係を結ぶことで、その権力の正統性を確保する意図があった。
 こうしたことから、御家人とはいえ、足利氏の家格は格別であったが、北条氏が健在な限り、潜在的なライバルとして警戒もされ、陰の存在にすぎないこともたしかであった。そうした中、鎌倉時代晩期に生まれた足利宗家第七代の貞氏は先代の父・家時が謎の自殺を遂げたことから、幼年で家督を継いだ。彼の人生もほぼ北条氏への服従に尽くされ、主体的な動きとしてみるべきものはない。
 にもかかわらず、彼を本連載の筆頭人物に置くのは、何よりも室町幕府を開いた足利尊氏(高氏)の父であることによるが、それだけではなく、貞氏の時代が足利氏の興隆を準備したからである。そうなったのも、北条執権体制の揺らぎという受動的な動向による。
 貞氏が家督を相続した翌弘安八年(1285年)に起きた霜月騒動は、その始まりであった。この政変を通じて、既成の御家人勢力に代わり、北条氏被官の内管領平頼綱による独裁政治が彼の死のまで続く。正安六年(93年)の平禅門の乱で頼綱を滅ぼし、実権を回復した執権・北条貞時は、足利貞氏を源氏嫡流として公認することで、権力の安定を図った。
 北条氏があえてこのように潜在的なライバルとなりかねない足利氏の権威を引き上げる策に出たのは、古くからの御家人層の間にある源氏将軍復活論を牽制するとともに、足利氏の顔を立てることで、その忠誠を確保する狙いがあったと見られる。
 貞氏はこうした北条氏の意図をよく汲み、出すぎた真似は決してせず、北条氏に尽くすことで答えた。貞時の出家に追随して、自らも出家したのも、そうした忠誠姿勢の表れであった。その一方で、貞氏は足利氏の内政を扱う家政機関や菩提寺・氏寺の再建・整備などの事業を地道にこなし、足利氏の基盤強化に努めていた。出家によって、いったんは家督を長男・高義に譲ったと見られているが、高義が早世すると、自ら再登板して家督を保持した。
 貞氏の晩年になると、鎌倉幕府の体制はいよいよ弱体化していくが、そうした中でも貞氏は積極的な動きを見せることはなかった。貞氏は元弘元年(1331年)に始まる後醍醐天皇らによる倒幕計画が当初失敗に終わった時には、計画に加わった僧・忠円の身柄を預かるなど、幕末期に至っても幕府側で行動している。
 貞氏はこの年、死去し、家督は次男の高氏に継承されたため、その二年後の倒幕を見届けることはなかった。歴史に「もし」はないと言われるが、もし貞氏がもう少し長生していたら、倒幕に左袒したかと言えば、それは疑わしい。
 それほどに貞氏は鎌倉幕府忠臣としての生涯を全うしているのだが、ある意味では長生しなかったことで、高氏を足利氏の新世代として世に送り出した功績があったと言える。中国的な王朝慣習によるなら、追贈的に足利将軍家「太祖」として数えられることもあり得る立場にいたのが、貞氏である。その意味でも、彼を筆頭者に上げたのである。