歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

関東通史―中心⇔辺境(12)

十三 近世の関東①

 関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、織豊両氏とは異なり、仮冒の疑い強い源氏系新田氏分家世良田氏の出自を称したため、源氏長者の名義で征夷大将軍に就任し、間接的に鎌倉・室町幕府の継承者として、室町幕府滅亡以来およそ30年ぶりに幕府体制を復活させた。
 しかし当時、源氏系足利将軍宗家は事実上断絶していたものの、最後の古河公方であった足利義氏の娘・氏姫の再婚相手となっていた喜連川頼氏(小弓公方足利義明の孫)が存命しており、封建的な血筋論からすれば、彼こそが源氏長者にふさわしかった。
 家康もそのことは意識していたと見え、頼氏が関ヶ原の戦いには参戦せず、何の戦功も挙げていないにもかかわらず、足利氏の本貫にも近い栃木の喜連川に領地を安堵し、石高では旗本級ながら実質上大名格で処遇し(喜連川藩)、徳川氏と明確な主従関係も形成せずに、「御所」号すら容認したのであった。
 こうした厚遇には、古河公方滅亡後も関東地方に依然残されていた鎌倉公方足利氏の名声を、本来は東海地方出自の徳川氏による関東中心政権の正当化に利用しようとする狙いも込められていたのであろう。
 ところで、筆者の学校時代には、「江戸は、徳川幕府が置かれるまでは、辺境の漁村にすぎなかったが、徳川幕府の積極的な開発政策により首都として発展し、今日の東京の基礎を築くに至った」というのが通説であったと記憶するが、このような見方は、現在修正されている。
 専ら徳川氏の功業を強調する江戸発展史は徳川幕府の情宣によるところが大きいと考えられるのである。実際、江戸が何もない辺境地にすぎなければ、たとえ秀吉から領地として安堵されたものだとしても、本来は織豊両氏と同様、東海地方に本拠を持つ家康が江戸を自身の幕府の首府に定めたはずはなかろう。
 前にも述べたように、江戸は幕府開祖の家康が入部する以前、江戸氏による原初的な開発と江戸氏を駆逐した太田氏による江戸築城、それを引き継いだ上杉氏、さらに後北条氏の時代を通じて、関東の物流中継地の城下町として発展しつつあった。目ざとい家康はそうした新興都市江戸の将来性に目を付けたと思われるのである。彼の先見の明は、その後、武家政権としては最長の250年以上にわたる安定した支配体制の繁栄を保障したのであった。
 ちなみに、江戸の開発に先鞭をつけた江戸氏(平氏秩父氏流)は江戸を追われた後、当時は江戸区域外であった現世田谷区喜多見に退去し、後北条氏家臣を経て、小田原征伐後は喜多見氏に改姓して徳川氏家臣となった。時代下って5代将軍綱吉の下、時の当主・喜多見重政(養子)は綱吉の側用人として重用され、一代で譜代大名に取り立てられ、喜多見藩を立藩するも、気骨ある側近であったらしい彼はたびたび将軍の意に反する進言をしたことから、将軍の不興を買い、わずか6年で改易、追放されている。
 この江戸=喜多見氏をはじめ、秩父氏系の一族は中世以来、河越(現埼玉県川越市)の河越氏や葛西氏、豊島氏、蒲田氏など、今日でも首都圏の地名として残る江戸周辺要地にも割拠し、原初的な開発を担ってきており、江戸を本拠に定めた徳川幕府による江戸とその周辺地域の開発も、そうした先行開発の基盤の上に発展せられたものと言える。

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