四 神道の軍事化
神職武家の誕生
武家支配体制が確立されると、有力神社の神職一族も次第に武装化し、武家化していく傾向を生じた。そうした神官武家の代表格として、前回見た熊野に関連の深い藤白鈴木氏がある。鈴木氏は神道の祖とも言える物部氏正統の古代氏族・穂積氏後裔を称し、熊野三山の一つ、熊野速玉大社の神職を世襲して強い勢力を持った熊野三党の一党を出自とする。
鈴木一族は平安時代末期に武家化し、源氏方に付いて多くの軍功を上げた。その後、承久の乱では院方に付きながらもしぶとく生き延び、南北朝時代には一族が南朝方と北朝方に分裂したが、後者に付いた一派は伊豆の江梨に移住して江梨鈴木氏を興した。他にも、藤白鈴木氏は全国的に多くの分家を興して穂積姓鈴木氏の母体となった。
次いで、東国では信州を拠点とした諏訪氏がある。諏訪氏は出雲神話の建御名方神(タケノミナカタヌシ)を神話上の始祖と称し―そうだとすると、出雲王権系出自の可能性あり―、古代より諏訪大社の神職・大祝を世襲してきた一族であり、鈴木氏同様、平安時代末期に武家化し、源氏方に付いて軍功を上げている。諏訪氏は鎌倉幕府御家人、次いで執権北条氏体制の下では北条得宗家被官(御内人)として勢力を持った。
諏訪神社は源頼朝の崇敬と庇護を受けたため、建御名方神は東国の武神として東国武士の信仰を集め、勧請も盛んに行なわれたことから、諏訪神社が各地に普及する契機となった。諏訪氏を棟梁として諏訪神社氏人で固めた武士団は諏訪神党と称され、その結束力の高さを誇った。
しかし、こうした鎌倉幕府との特段の結びつきから、幕府の滅亡時には一族の多くが運命を共にすることとなった。にもかかわらず、諏訪氏は神職としての宗教的威信を武器に、南北朝・室町時代を生き延びた。15世紀の文明年間には一族の内紛が発生したが、これを収束させた後はかえって勢力圏を拡大し、諏訪地方における戦国大名としての地位を確立していく。
最後に、九州地方における神職武家として、阿蘇神社の神職・大宮司を世襲してきた阿蘇氏がある。阿蘇神社は土着性が強く、阿蘇氏の出自も元来は畿内王権から独立していた在地首長(阿蘇の君)の流れと見られる。畿内王権に服属してからは、朝廷から厚遇され、平安時代末期には地元武士団を統率するようになった。
阿蘇氏も源氏方に付いて鎌倉幕府との結びつきを強め、かつ阿蘇社領が執権北条氏の預所とされたことで北条氏とも結ばれ、最盛期を迎える。しかし、南北朝時代には南朝側を強力に支持したため、北朝側から介入を受け、一族は分裂した。その後も阿蘇氏家中では内紛が常態化しながら、戦国時代には肥後守護職・菊池氏を下克上して戦国大名化していくのである。
ちなみに、戦国期にいち早く天下人を目指した織田氏も、越前の劔神社神職の出自とする説がある。他方、織田氏は中臣氏に押しやられるまで朝廷祭祀を中心的に担っていた古代氏族・忌部氏の末裔とする説もある。
劔神社は気比神宮に次ぐ越前二宮の地位を持つ古社であり、朝廷で力を失った忌部氏の一部が越前に流れて神職となったと想定することも可能である。そうだとすると、忌部=織田氏も神職武家の一つということになるが、織田氏自身は平氏または藤原氏末裔を称し、劔神社を崇敬しつつも神職を担った記録はなく、仮説の域を出ない。