歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第32回)

第七章ノ二 「昆支朝」の継承と発展・(続)

(4)列島征服事業

倭の広開土王・欽明
 欽明天皇の和風諡号「天国排開広庭」(あめくにおしはらきひろにわ)とは「天下を押し開き、領土を広げた」との趣旨で、これはまさに倭の広開土王そのものである。
 ただ高句麗の広開土王(好太王)のように事績を記念した碑文こそ存在しないが、実は碑文に相当するような史料がある。それが『書紀』の景行紀の部分なのである。すなわち、景行紀の主人公「景行天皇」とは「雄略天皇」に次ぐ欽明天皇=獲加多支鹵大王の二つ目の分身像である。
 そう考えられる根拠として、まず「景行」(=景気よく行く)という諡号はまさに広開土王だった欽明と符合するし、もう一つの分身像「雄略」のイメージとも重なってくることである。また景行紀にはいわゆる熊襲征伐や東夷征伐に代表されるまさに列島征服事業に関わる記事が豊富に見られることも欽明=景行の根拠となる。
 反面、欽明紀はいわゆる任那問題に関わる外交記事でほとんど埋め尽くされていると言ってよい状態だが、これは6世紀半ば頃の史実をヤマトタケルの説話にも絡めつつ、包括して景行紀に移植する作為が加えられた結果である。
 もう一つ注目されるのは、安閑紀・宣化紀に集中的に現れるミヤケ設置記事である。先述したように、「安閑天皇」と「宣化天皇」は辛亥の変で殺害されたと見られる継体=男弟大王の太子と皇子であるから、両天皇紀は史実に沿っていないとはいえ、単なる埋め草でもなく、ここに主として欽明=獲加多支鹵大王時代の征服地に設置されたミヤケのリストが収められているとみなしてよい。
 それをみると、西はおおむね九州の熊本あたりまで、東は関東の群馬あたりまでが限界となっていることがわかる。これでも、継体=男弟大王代までと比べれば、畿内王権の支配領域は東西に大きく延伸されたことになる。
 こうした広開土王・欽明の積極的な列島征服活動は、大王称号にも変化をもたらしたと見られる。それは先の稲荷山古墳鉄剣に先駆けて熊本県菊水町(現和水町)の江田船山古墳から出土していた大刀銘文中の「治天下獲***歯大王」という文言に示されている。稲荷山鉄剣が発見されるまで、文言中「獲***歯大王」は「蝮弥都歯大王」と読まれ、「多遅比瑞歯別」(たじひのみずはわけ)の和風諡号を与えられた第18代反正天皇に比定されていたが、稲荷山鉄剣の発見後は、これも「獲(加)(多)(支)歯(=鹵)」と補正されて読まれるようになった。
 この江田船山古墳は稲荷山古墳よりもやや新しいと見られているが、そうするとその比較的短い間に畿内王権の領土が広がって、大王は単なる大王から「天の下治めす」大王へと飛躍したのである。
 この時点ではまだ後の天皇即位宣命文に現れる「大八嶋国知ろしめす」といった定型文言はなかったとしても、強力な地域王権の一つにすぎなかった畿内王権がようやく広域を支配する領土国家へ成長しつつあった事実が、「治天下」という新たな修飾語句にも表れていると考えられる。

九州遠征/吉備攻略
 欽明=獲加多支鹵大王の列島征服活動は時期的・地理的に三つに大別することができ、その第一が治世初期の九州遠征である。これは主として辛亥の変から大伴金村の引退までの間、畿内の内政を金村が掌握していた時期に、大王親征の形で実行されたものと見られる。
 ここで注目されるのは、景行12年条でいわゆる熊襲征伐へ向かう景行がまず周芳[すおう]の娑麼[さば](周防の佐波)に軍営を置いていることである。同じ周防国山口県南部)には、筑紫から都へ上る欽明が御輿を立てたとの伝承が残る古寺・欽明寺や欽明路という地名も残り、後者はJR岩徳線の駅名ともなっている。
 大王の九州遠征では本州側の山間部の佐波に出撃基地のようなものが置かれ、欽明自身はここに陣取って九州へ送る軍団を指揮していたということも考えられる。ちなみに推古天皇の時代、欽明の孫に当たる来目皇子[くめのみこ]が新羅征討将軍として派遣されながら筑紫で死去した時には、佐波に殯宮が設営されたということも示唆的である。
 さて、景行紀に架上された欽明の九州遠征で重要なトピックとなっているのは、九州南部のいわゆる熊襲征伐であり、そこでは景行が熊襲勢力をすべて平定したように叙述されているが、これは相当に割り引いて受け取らなければならない。
 熊襲とは第三章で指摘したように、隼人勢力の中でも最後まで朝廷に抵抗を続けた集団と見られるが、安閑・宣化紀に架上されたミヤケのリストにも後の大隅・薩摩を含む日向地方に関わるものは見当たらないことから、九州南部が6世紀の時点で昆支朝の支配領域に組み込まれていたとは考えにくい。
 ただ、昆支大王時代に日向北部の加耶系王権の首長・諸県君と通婚同盟が締結されたことで、熊襲を含む隼人勢力が割拠する九州南部への進出の道が開かれたのは事実であろう。
 そうすると、景行紀でどうにか史実として受け取れるのは、熊襲勢力とは区別される大分から熊本にかけての「土蜘蛛」(=土豪)勢力の征服である。先のミヤケのリストでも、豊国、火(肥)国ではミヤケの設置が進んでいるからである。
 要するに、欽明の初期九州遠征では磐井戦争にも加勢した九州中・北部地域を中心的に攻略していたものと考えられる。その集大成として、宣化紀元年条に架上される那津宮家[なのつみやけ]の創設があったと見られる。このミヤケは筑紫・肥国・豊国のミヤケを統括する後の大宰府の原型とも推定される総合センター的なミヤケであり、以後同ミヤケを拠点に九州北半部への支配が強化されていったであろう。
 以上に対して、第二の征服活動は吉備攻略である。吉備は第三章でも見たように、強大な吉備加耶系王権が所在したところで、旧加耶畿内王権とは緊密な連合王国を形成していた可能性を指摘した。
 百済系の昆支朝が成立して以降の吉備王権との関わりははっきりしないが、応神紀22年条に応神が吉備国を巡幸した際、兄弟子孫を料理番として奉仕させた御友別[みともわけ]の子たちに吉備国を割いて各々に治めさせたという説話的な授封記事が見える。
 この記事から読み取れる史実は、吉備に対しては早くも応神=昆支大王代から領土分割などの介入が試みられていたということである。それに伴って吉備出身の官人なども畿内王権に出仕するようになっていたと見られるが、雄略紀7年条にはそうした吉備系官人の讒言にかこつけて、雄略が物部軍団の兵士を派遣して吉備王権の実力者、吉備下道臣一族を皆殺しにしたという苛烈な弾圧の記事も見え、雄略=欽明の武断的手法がよく表れている。
 そしてついに、欽明16年条には吉備五郡に白猪[しらい]屯倉を設置したとあり、治世末期の欽明30年には、この地で初の戸籍作成も試行されるのである。
 こうしてみると、吉備に対しては、かねてよりなし崩しに昆支朝に従属させられつつあった状況を利用し、最終的には武力介入によって征服に至ったものであろう。

東国遠征
 東国、ことに関東以北は「東夷」の地として畿内王権にとっては長く秘境であったため、東国への遠征は欽明治世後半になってようやく開始されたものと推定される。やはり景行紀に架上されている東国遠征はとりわけ有名なヤマトタケルの英雄物語と結びつけられて、景行紀の重要な柱を成している。
 東国遠征では主に景行天皇の子とされるヤマトタケルが活躍し、景行の親征は記されていないところからすると、東国遠征は専ら畿内から将軍を派遣する形で実行されたものと考えられる。
 東国征服がどこまで達成されたかを確定するのは難題だが、何が達成されなかったかを推定することは比較的容易である。まずミヤケ設置の東限は今日の群馬県南部であるから、それより北の東北地方は未征服であった。東北以北はいわゆる「蝦夷」の地であるが、越国を含む蝦夷の地への畿内王権の本格的な征服活動が史実として確認できるのは、ようやく7世紀半ばのことにすぎない。
 ただし、ヤマトタケルの行軍経路を見ると、太平洋側から陸奥国まで侵入したことになっている。この時期に陸奥まで遠征したということは信じ難いが、今日の岩手南部の日高見(北上)付近までは6世紀半ばから踏査的な遠征軍が派遣されていたということは考えられる。
 いずれにせよ、欽明時代の東国遠征の中心は東海から関東甲信越というところであるが、中でも安閑紀では夷隅、武蔵、毛野など、今日の千葉、埼玉、群馬にかけての地域に畿内王権が介入してミヤケ設置を強制する記事が架上されていることは参考になる。
 『書紀』はこれら東国に割拠する地方勢力を中国的な概念で「東夷」として蛮族視しているが、東国に割拠したのは決して蛮族ではなく、むしろ高句麗的特徴を備えた方墳(その変容形態としての前方後方墳を含む)や、積石塚を墓制とする渡来勢力の流れを汲む豪族であった。
 おそらく4世紀後葉に高句麗百済に惨敗し、一時国力が衰退した時に相当数の流民が生じ、かれらがはじめ能登半島付近に漂着し―実際、能登半島付近にも高句麗的特徴を備えた方墳が分布している―、そこから関東一円や信州にも拡散、東国以来の古い在地勢力を征服し、混血・土着していったものと見られる。
 特に信州の千曲川流域は高句麗が427年に平壌に遷都する以前の墓制の特徴を濃厚に持つ積石塚古墳が密集するところであり、軍事的にも相当強力な地域王権に発展したらしく、『書紀』の景行紀でもヤマトタケルの言葉を借りて「信濃国は王化に服していない」と征服できなかったことを認めているほどである。
 関東では群馬が最大級の古墳密集地帯であり、ここを拠点に地域王権を形成したのが毛野氏であったが、毛野氏が6世紀半ば頃に西部の上毛野氏と東部の下毛野氏とに分氏されたことは、欽明時代における東国遠征の最大成果と言ってよいであろう。この上下両毛野氏は後に朝廷の要職者となり、系図天皇系譜に組み込まれる栄誉を得たが、高句麗的な方墳の多いこの両毛地域の古墳の特質から見て、毛野氏の遠祖も高句麗系であった可能性は高い。
 そのほか、関東では房総半島にも方墳を特徴とする古墳の密集地帯がある。この房総勢力も軍事的に相当強力だったらしいことは、ヤマトタケルが相模から上総へ渡ろうとした際、暴風に遭ったのは海神のしわざだとして、愛妾・弟橘媛[おとたちばなひめ]が自ら人身御供となって入水し鎮めたという有名な説話に示唆されている。
 これら東国の征服は欽明時代には完了せず、彼の子孫たちに引き継がれて7世紀初頭頃までには一応の区切りをつけ、やがて東北以北の征服にも移っていったものであろう。

ヤマトタケルの造型
 さて、景行紀では主として東国遠征で景行天皇の皇子とされるヤマトタケルが活躍するが(九州遠征にも一部関わる)、今日ヤマトタケルを実在人物と考える学説はほとんどなく、ヤマトタケルとは畿内王権が東国遠征に派遣した複数の将軍たちのイメージを一人の英雄像に統合したものととらえる説が有力となっている。
 それも現実的な所論として傾聴されるべきであろうが、筆者としては景行43年条に景行天皇が武部[たけるべ]を定めたとあるからには、やはり景行=欽明=獲加多支鹵大王が何らかの政策的な意図をもって特定の人物をモデルとしてヤマトタケルを造型したと考えてみたい。
 まず「タケル」とは獲加多支鹵大王自身の名前の一部を取ったものと考えられるから、ヤマトタケルの第一のモデルは大王自身である。これはもちろん自身の領土拡大の事績を後世に伝えるという政策的な関心と結びついている。それはやがて彼の子孫たちによって畿内王権の地方支配を正当化するイデオロギーとして利用されるようにもなっていく。
 しかしそれだけであろうか。ヤマトタケルは東国遠征からの帰途、病に倒れ、30歳で父より先に早世し、白鳥となって天空に去るというロマン的な悲劇の主人公でもある。ヤマトタケルには獲加多支鹵大王=欽明自身のほかにもう一人、二重のモデルがあったのではないか。
 その二人目のモデルとして想定できるのは、欽明13年に死去したことが記される箭田珠勝大兄皇子[やたのたまかつのおおえのみこ]である。この人は欽明と正妃・石姫との間の長男であるが、生誕記事と死亡記事しかなく、事績が全く伝えられていない。
 彼は大兄称号を持つ以上、太子であったが、父より先に夭折した。この点でも、ヤマトタケルのエピソードと符合するところがある。景行天皇はタケルの死を悲嘆し、安眠できず、食べても味を感じず、昼夜むせび泣いたとあるが、これは太子を失った欽明自身の姿とも重なる。
 もちろん金の卵の太子をヤマトタケルのように危険な東国遠征に出したとは思えず、太子の死因は病気の可能性が高いが、欽明は自らの悲嘆を表現するためにも、自分自身と早世した太子とを二重にモデル化して、ヤマトタケルを造型したものと考えられるのである。