歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第33回)

第七章ノ二 「昆支朝」の継承と発展・(続)

(5)行政=経済改革

中央行政機構
 昆支大王、男弟大王時代の畿内王権は旧加耶系王権時代以来の地域王権の性格を脱しておらず、中央行政機構も未整備であったが、重臣の合議制は昆支の専制支配を緩和した男弟大王代におそらく百済の佐平制度を参考にして徐々に整備され、大臣・大連の制度が形成されていったものと思われる。しかし、なお百済のような担当部ごとに分かれた中央行政機構は未発達であった。
 これに対して、獲加多支鹵大王=欽明は、様々な職能集団を大王直属の部民として再編することによって、一種の中央行政機構を組織したものと考えられる。
 この点、『書紀』では雄略紀で、宍人部・少子部・史部のほか、陶作部・鞍作部・錦織部・画部、さらには鳥養部、安閑紀では犬養部など様々な大王直属部の設置が記されているが、これらは基本的に欽明時代の行政=経済改革の成果である。
 これらの部の多くは渡来系の職能集団であると同時に、一種の行政部局としての機能も果たし、部ごとの責任者の官人が置かれた。これは後の律令制下での中央行政機構には程遠いが、6世紀半ば頃の倭の社会的条件の枠内では十分進歩的な改革策であり、大王の行政権力と財力の双方を同時に強化する一石二鳥の効果を果たした。
 ただし、ここまでが限界であり、『書紀』は「雄略」の遺言の形で「朝野の衣冠のみはまだはっきりと定めることができなかった。教化刑政も十分広く行われたということはできない」と記すように、「朝野の衣冠」=官人の冠位制度(令)、「教化刑政」=刑罰制度(律)の整備は次の7世紀を待たねばならなかったのである。 

地方行政制度
 欽明時代に畿内王権が領土国家として発展するのに伴い、地方支配を強化するための新しい制度が必要となった。おそらく欽明治世初期には征服地の地方首長から領地をミヤケとして献上させたうえ、そこへ中央から文武の官人を移住・入植させて大王直轄地を経営させるというバターンが通常だったと思われる。
 この点で、例の稲荷山古墳鉄剣に銘文を刻んだ杖刀人首・乎獲居臣や、江田船山大刀に銘文を刻んだ典曹人(文官)无利弖(ムリテ)はそれぞれ関東と九州のミヤケに移住・入植を命ぜられた官人で、相当な規模の墳墓に納まっているところからすると、現地ミヤケの責任者級で事実上の地方長官であったかもしれない。
 しかし、小邦分立傾向が顕著な当時の日本列島ではこうした直轄地経営だけでは地方支配は貫徹できず、欽明の治世後半には地方首長クラスの豪族を国造に任じ、地方行政権を委ねると同時に、国造一族などの有力者を地方伴造に任じ、中央の大王直属職業部や、大王・王族の宮名を冠した名代・子代の部に奉仕させる部民制が整備されていく。

戸籍制度
 欽明時代の今一つの重要な行政=経済改革として、戸籍制度の原型を試行したことが挙げられる。
 『書紀』ではまず、雄略15年のこととして、秦氏の部民を集めて氏族長・秦造酒[はたのみやつこさけ]に管理させたところ、租税を広く積んだので、太秦[うずまさ]の姓を賜ったこと、同16年には漢氏の部民を集めて管理者を決めさせ、姓を直[あたい]と賜ったことが記されているが、欽明元年には秦人、漢人を集めて各地の国郡に配置して戸籍に入れたこと、秦人の戸数は7053戸で秦大津父(はたのおおつち)を秦伴造に任じたことが記される。
 これらは実質的に連続した記事として読め、雄略=欽明の根拠ともなるところであるが、要するに秦氏・漢氏のような渡来系の大氏族集団を再編して戸籍を作成し、統制するようになったことを意味しており、特に秦氏は財政担当職に就いて王室財政にも関与するようになった。
 さらに、欽明30年には吉備の白猪田部(農民)の丁者(壮年者)の戸籍を作成させている。これは課税逃れを防止する目的から試行されたもので、7世紀代に本格導入された戸籍制度の先駆けを成すものと思われる。
 こうした戸籍制度の限定的な試行は当然、文書制度の発生と関わっており、これは先の大王直属部として史部(文書部)が創設されたことと無関係ではないだろう。白猪田部の戸籍を作成した胆津[いつ]という人も、この功績から白猪史[しらいのふびと]の姓を賜っている。