歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第27回)

第七章 「昆支朝」の継承と発展

記紀』では、「昆支朝」の成立を完全に秘匿したうえ、開祖・昆支大王から三代の大王の分身像を多数設定して架空の天皇系譜を作出している。しかし、およそ90年にわたった「昆支朝」三代の時代こそ、畿内王権が全土的「朝廷」へ発展する土台が固まった大時代であった。では、昆支大王が開いた「昆支朝」は実際のところ、どのように継承発展せられていったのだろうか。

(1)男弟大王への継承

「応神」から「継体」へ
 『記紀』によると、第15代応神天皇の後継者はあの日本最大級の古墳、宮内庁治定仁徳天皇陵大仙陵古墳)で知られる第16代仁徳天皇である。しかし、仁徳に関してはかねてより架空説も強い。実際のところ、応神天皇=昆支大王の後継者とは誰だったのだろうか。
 そのヒントは例の隅田八幡神社所蔵人物画像鏡銘文中にある。先に、この鏡は「日十大王」=昆支大王在世中の503年に、百済の斯馬王(武寧王)が倭の「男弟王」に献呈したものと示しておいたが、ここで改めて銘文全文を読解してみよう。

癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟

 鏡の贈り先「男弟王」が誰を指すかについては、異論もあるが、諱を男大迹(おほど)といった第26代継体天皇を指すものと考えてよかろう。そうすると、銘文の意味は次のようにとることができる。

癸未年八月、日十(昆支)大王の治世中、男弟王が意柴沙加宮に在る時、斯麻は男弟王の長寿を念じて、開中費直と穢人今州利の二人を遣わし、白い上質の銅二百旱を使い、この鏡を作らせたものである。

 ちなみに、斯麻王から鏡作りを仰せつかった二人の官人と見られる人物の読みは難しいが、はじめの「開中費直」は「河内直」と考えられる。河内直は、前述したように、昆支大王の支持基盤であった河内閥の実力者で河内地方の百済系豪族であるが、河内直は百済との外交も担っていたらしく、後代の欽明紀にも一種の外交官として登場する。二人目の「穢人今州利」とは、高句麗に併合された東ワイ出自の百済系官人であろう。
 銘文を上述のように読解した場合、男弟王=継体天皇は昆支大王=応神天皇の直接の継承者と解してよいことになる。なぜなら、『書紀』によれば第26代継体天皇は一代前の第25代武烈天皇が506年に死去したことを受けて507年に即位したとされているが、銘文によれば即位の4年前の503年はまだ「昆支大王年」であり、昆支大王は在位していたことが確認できるからである。
 もっとも、銘文は昆支大王と男弟王の続柄にも男弟王の身分にも触れていないので、断定はできないが、在位中の百済王が高級鏡を贈った相手が一介の王族にすぎないとは考えにくいので、男弟王は503年当時、昆支大王の後継者たる太子だったと推定することは不合理でない。そうすると、継体天皇は即位前、男弟王と呼ばれており、506年の父・昆支大王の死を受けて、507年に即位して「男弟大王」を称したと考えられるのである。
 なお、前出の石渡信一郎氏は男弟王を昆支の実弟と結論づけているが、昆支の弟の渡来はどの史書にも見えず、立証は困難なように思われる。
 ところで、『書紀』は継体天皇即位の経緯について、先帝で暴君であった武烈天皇に子がなかったことから、重臣らははじめ第14代仲哀天皇の五世孫に当たる人を天皇に立てようとしたが、この人を迎えに行ったところ逃亡し行方不明になってしまったため、当時越前三国に在住していた応神天皇の五世孫に当たる男大迹王(男弟王)に白羽の矢を立て、強く固辞されたのを三顧の礼をもってようやく天皇に迎えたと記している。
 このように、継体が先帝武烈の直系ではなく、応神の五世孫というならば、『書紀』の叙述によっても継体は実質的な新王朝開祖とみなしてよいことになる。しかし『書紀』は応神から継体までの系図を何ら示していないのである。そうしたことから、継体天皇とは越前・近江方面から侵攻してきた王位簒奪者ではないかとする見解もかねてより有力である。
 もっとも、鎌倉時代に出た『書紀』の注釈書『釈日本紀』に引用された7世紀代の聖徳太子の伝記『上宮記逸文中に、凡牟都和希王(応神)の皇子とされる若野毛二俣王に始まり、乎富等大公王(継体)に至る系図が見えることから、これが「五世孫」の根拠だとも反論されている。
 しかし、応神と継体の間が五世代も開いてしまうのは、前にも指摘したとおり、『書紀』が応神(昆支大王)の実年代を200年近くも遡及させる作為を加えたためであるから、このような作為を除去してとらえ直してみれば、応神→継体は直接の父子関係であると考えて何ら不自然さはなく、男弟大王は無事に父・昆支大王から倭(畿内王権)の大王位を継承したと考えられるのである。そうすると、『上宮記』という逸失書物上の系図も、事後的に造作されたものと理解すべきであろう。
 ただ、『書紀』がなぜ継体天皇を実質的な新王朝開祖として提示し、種々の荒唐無稽なサディスト的残虐行為のエピソードで暗黒化された架空の先帝「武烈」と対比しつつ、継体を徳の高い名君として描いているのかということは、継体天皇=男弟天皇の母は誰かという問いと関連してくる。

男弟大王の母
 実際、継体天皇=男弟大王の母とは誰なのであろうか。この点『書紀』によると、継体の母は振媛[ふるひめ]といい、美女であるとの評判を聞き、継体の父・彦主人王[ひこうしのおおきみ]が近江国三尾の別邸から越前三国に使いを出して妃として迎え入れたとされる。
 しかし、振媛は『書紀』が造作した系図上の“母”であるから、本当の母は別に捜さなければならない。その際、案外ヒントを与えてくれるのが、先の『上宮記逸文中の造作された系図なのである。
 もう一度振り返ると、凡牟都和希王(応神)の子に若野毛二俣王という人物が見え、この系統から継体が出たことになっている。この若野毛二俣王(『記』では稚野毛二派皇子)の母は『書紀』の応神紀では河派仲彦[かわまたなかつひこ]の娘・弟姫[おとひめ]というが、『記』では、咋俣長日子王[くいまたながひこのみこ]の娘・息長真若中比売[おきながまわかなかつひめ]となっている。そして、この咋俣長日子の父は、倭建命[やまとたけるのみこと]が一女性(氏名不詳)をめとって生んだ息長田別王[おきながたわけのみこ]であるという。
 有名なヤマトタケルは全く伝説中の英雄にすぎないから、この系図から最小限受け取れることは、要するに応神=昆支大王は近江の湖東地域を本貫とした豪族・息長氏の娘を妃としたということである。
 さて、そうすると、ここで思い浮かぶのは、応神天皇の母とされてきた息長帯比売=神功皇后のことである。当然ながら、百済で生まれ育った応神=昆支大王の母が息長氏の出であるはずがない。
 しかも、息長帯比売とは「息長のタラシヒメ(=息女)」といった意味の一般名詞にすぎず、彼女の父とされる息長宿禰王も「息長」という氏に「宿禰王」という姓・称号が冠されているだけで、名前が見えない。父娘で名無しなのである。
 結局のところ、こうしたことが示唆しているのは、「神功皇后」とは、昆支大王を「応神天皇」として天皇系譜に組み入れるための系図上のつなぎ役として、父とされる「仲哀天皇」とともに作出された架空人物であったということである。
 真相は、昆支大王は倭に渡来後、息長氏の息女・息長真若中比売を妃として男弟王を生んだということである。よって、男弟大王の母とはこの息長真若中比売にほかならない。
 このことから、男弟大王=継体天皇が近江と深い関わりを持ち、自らも母方の息長系を含む4人もの妃を近江から召し入れた理由の一端が明かされるし、先に人物画像鏡銘文で即位前の男弟王が「意柴沙加宮(おしさかのみや)」にいたという理由も解ける。
 この意柴沙加宮(忍坂宮、押坂宮)とは、現在の奈良県桜井市忍坂[おさか]にあった宮と見られるが、昆支大王在位中から息長氏の畿内における拠点となっていたようであり、7世紀になっても男弟大王の曾孫に当たる押坂彦人大兄皇子[おしさかのひこひとのおおえのみこ]の名や、その子で息長足日広額天皇[おきながたらしひひろぬかのすめらみこと]の和風諡号を持つ第34代舒明天皇の押坂内陵[おさかのうちのみささぎ]といった陵墓名にも冠されている。
 ただ、昆支大王がなぜ妃をめとるほど息長氏と深い結びつきを持つようになったのかはよくわからない。そもそも息長氏の素性もよくわからないが、「息長(または気長)」という氏族名は、琵琶湖や琵琶湖水系を拠点とする海人(水軍)勢力から出発したことを示しているように見える。
 息長氏の墓所と見られる湖東の息長古墳群は決して大規模ではないが、ともかく昆支大王の姻族となって以来、息長氏は有力な皇親として家格が上昇し、遠く天武天皇代の「八色の姓」の制度上も最高位の「真人」を授姓されている。
 実際、いわゆる「大化の改新」により、先の押坂彦人大兄皇子の孫になる孝徳天皇皇位に就いて以降、その系統内部での若干の入れ替わりはあれ、今日に至るまで「息長系」と呼んでもよい皇統が続いており、当然『書紀』が編纂された奈良朝の諸天皇もこの系統であったから、「息長系」という視点で見た場合の開祖が息長氏の母から生まれた男弟大王=継体天皇であるとの考えに立って、『書紀』は継体を特に取り出して実質的な新王朝開祖たる名君として提示したのではないかと考えられるのである。
 もちろん、そのようにして継体と応神を世代的に引き離すことによって、応神の正体が実は百済王子・昆支であったことを秘匿する一石二鳥の効果も狙われたであろう。

武寧王の先行投資
 では、ここでもう一つの問題、百済武寧王(斯麻王)はなぜ昆支大王の頭越しに太子時代の男弟王に鏡を贈呈したのだろうかということを考えてみよう。この問いを解くには、まず武寧王と昆支大王の続柄を検討してみる必要がある。
 この点、朝鮮側史料の『三国史記』によると、武寧王は東城王の子で、501年の東城王暗殺を受けて即位したとされる。これによれば、武寧王は昆支大王の孫に当たることになる。
 しかし、1971年に武寧王陵と判明した韓国の忠清南道公州で発見された古墳から出土した買地券に、「斯麻王は癸卯年(523年)に六十三歳で崩御した」という記述がある。これによると、武寧王の生年は数え年で言えば462年になる。
 ところが、昆支は461年に来倭した時にすでに5人の子があったというから、早婚だった古代とはいえ、5人の子持ちならば、どんなに若くとも25歳から30歳ぐらいには達していたと思われるので、昆支の生年代は430年代前半頃になる。そうすると、462年生まれの武寧王とはだいたい親子の年齢差であって、祖父と孫とは考えにくい。
 実は『書紀』には、この武寧王の出生について、一見突拍子もない説明がある。それによると、昆支の兄・蓋鹵王は昆支を送り出す時、妊娠中の側室を弟に与え、「もし女が途中で出産したら、母子同船で国に送り返すように」と命じた。女は果たして、筑紫の各羅島[かからのしま]で出産したので、この子を嶋君[しまきし]といい、兄の命令どうりに母子を送り返した。これが武寧王であるというのである。この説明によると、武寧王は昆支の兄の子であり、昆支から見ると甥に当たることになる。
 この記事は、武寧王の諱(もしくは通称)が斯麻であることの説明をつけるためのこじつけと思われ、信用し難い。ただ、兄の蓋鹵王が側室の一人を与え、昆支との間に斯麻王が生まれたと修正すれば、斯麻王=武寧王とは昆支の子であり、ある程度長じてから祖国へ送り返されたと考えることもできる。ただその場合、子を送り返す理由が不明確になる。蓋鹵王としては女が妊娠中の子が自分の子であるからこそ、もし無事出産したら送り返すように命じたであろうからである。
 そうすると、先ほどの記事を全面的に修正して、元来武寧王は側室を母としてやや遅く生まれた蓋鹵王の子であって、側室を弟に与えた云々は物語性を高めるための興味本位な作話に過ぎないと考えてみるとすっきりするように思われる。
 このように、武寧王を蓋鹵王の子とおいてみると、彼は倭の男弟王とは従兄弟同士の関係ということになるので、例の鏡は王位に就いて間もない武寧王が従弟の男弟王に贈呈したものと解釈できる。
 それにしても、叔父の昆支大王をさしおいて、その太子で従弟の男弟王への贈り物をした武寧王の意図は何であったのだろうか。
 一つには、503年当時、おそらく70歳前後に達し、老境に入っていた叔父の昆支大王の間近い死を見越して、時期倭王の太子・男弟王に先行投資の意味でプレゼントしておいたということが考えられよう。
 しかし、それだけでなく、この時期、昆支大王と武寧王とは微妙な緊張関係にあったように見え、そのことが昆支大王の頭越しの先行投資の強い動機となったのではないだろうか。
 それは武寧王即位の特殊な状況と関わっている。前述したように、昆支大王の息子・東城王は501年に暗殺される。『三国史記』によると、東城王は狩猟中、大雪に遭って宿っていたところへ、王に恨みを抱く高官が差し向けた刺客によって暗殺されたという。
 同書ではそれだけの話であるが、『書紀』では逸失した『百済新撰』を引用する形で、末多王(東城王)が無道を行い、民を苦しめたため、国人は王を捨てて嶋王(武寧王)を立てたという注記を載せている。
 先述したように、東城王は熊津亡命政権を立て直し、王権を強化して百済中興の基礎を作った英主であったが、専制君主でもあったため、晩年には暴君化し、一種の革命により殺害されたとも考えられる。すると、どうしてもこの「革命」の背後に武寧王の関与が疑われてくる。武寧王が蓋鹵王の子だとすれば、彼は東城王の従兄であり、本来王位継承権があるとは思われないから、なおのこと陰謀が想定される。少なくとも、東城王の父・昆支大王の目にはそう映ったであろうことは想像に難くなく、そのために武寧王政権との関係が緊張したのではないだろうか。
 そういうことから、武寧王としても次期倭王の従弟・男弟王には関係改善の期待を大いに抱いており、そのことが鏡の贈呈に込められていると考えられるのである。
 実は、先の鏡はいつどこで出土したのか判明していないというから、倭王権側で正式に受領し、厳重に保管された秘宝ではなかったようである。とすると、これは私的な贈答品として男弟王自身または他の何者かによってどこかで私的に秘蔵されていたということかもしれない。もっとも、現在それが応神=昆支大王を祀る八幡神社に所蔵されているという事実はそれなりに意味深長ではある。