歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第34回)

第七章ノ二 「昆支朝」の継承と発展・(続)

(6)二つの任那問題

幻想の「任那経営」
 『書紀』の継体紀と欽明紀では、任那加耶)をめぐる外交・軍事問題(任那問題)がことさらに重視されており、その関係記事の分量が内政関係記事を上回っている。
 とりわけ、「任那日本府」なる一種の植民統治機関が突如現われ、これを通じて倭が加耶地方を統治しているかのような叙述も見られるため、「神功皇后」の三韓征伐伝承と合わせて、戦前には日本の朝鮮半島支配を正当化する歴史的根拠として利用されたところであるが、今日でも「任那日本府」を何らかの実態を伴った出先機関とみなそうとするのが依然として通説と言ってよい。
 しかし、「任那日本府」は半島側でも何ら考古学的に立証されないばかりか、『書紀』の叙述自体によってさえ、その設置時期も機構も明らかにされない幻の組織体なのである。
 そもそも畿内王権側では、王家が加耶系から百済系に変更された5世紀後葉以降、加耶地方に対する王朝ルーツとしての関心は低下していた。もっとも、王権内にはなお加耶にルーツを持つ有力氏族が残留していたから、加耶に対する関心が全く失われたわけではなかったかもしれないが、それは王権総体としての関心ではもはやなかった。
 他方、半島内では百済が4世紀末以来、加耶地方への領土的野心を隠さず、常に浸透を図っていたところ、6世紀に入ると、新羅が英主・法興王(在位514年‐539年)の下、軍事力を強化し、加耶地方への進出を図り出したため、百済との軍事衝突が頻発するようになり、5世紀前半以来の百済との友好関係に亀裂が入り始めた。
 一方、加耶地方南部では天孫ニギ族の故国・金官加耶が5世紀後半以降すっかり衰退し、代わって北部の大加耶慶尚北道高霊)が479年には中国南朝の南斉に遣使するほどの力をつけ、6世紀代には盟主格となる。そして522年には新羅と通婚同盟を結ぶに至る。一方、金官加耶は532年に最後の王・金仇亥(仇衡王)が新羅に自主投降し、新羅の版図に入った。
 この間、倭では531年に継体=男弟大王が死去し、例の辛亥の変が勃発しているので、532年の金官加耶滅亡は継体時代でないはずであるのに、『書紀』では新羅に破られた南加羅金官加耶)などを再建するとして、近江毛野臣なる人物を派遣する話や、新羅が筑紫君磐井を買収して反乱を起こさせる話などが思わせぶりに記されるが、いずれも疑わしい。近江毛野臣もそれが毛野氏の一族だとすると、毛野氏は関東を本貫とする豪族であるから、近江毛野臣は名無しの素性不明者で、実在性は疑わしい。
 ただ、継体紀で注目されるのは、継体23年条に加耶地方南部の安羅が新しく高堂を建てたとする記事である。安羅は6世紀に入ると衰退した金官加耶に代わって加耶南部で外交的に力をつけた模様で、この「高堂」も一種の国際会議場として提供され、ここに関係当時国の使臣が招かれている。「任那日本府」も安羅に所在したとされるから、これは安羅が設置した「高堂」を『書紀』が都合よく「日本府」にすりかえたものとも考えられる。
 ともあれ、「任那問題」は欽明紀にも引き継がれ、百済を交えた大々的な国際会議(いわゆる任那復興会議)に発展する。そこで注目されるのは、欽明の詔の中で、百済王(武寧王を継いだ聖王)に対して、「任那が滅んだら、汝のよりどころを失う」とか、「任那は爾の国の柱である」といった言い方で、百済に対して任那復興」を勧めていることである。
 ここに「任那問題」の本質が現れている。要するに、倭(畿内王権)は倭済同盟の中で百済任那権益をバックアップしていただけで、積極的に自国の国益としては考えていなかったということである。であればこそ、倭側は百済の再三の援軍要請を引き延ばして、欽明15年になってようやく送った援軍も小規模で、大して役に立たなかったのである。
 こうして「任那経営」の幻想性は『書紀』の叙述自体によっても確証され得るのである。従って、562年には大加耶新羅に滅ぼされ、実質上加耶地方が新羅の領土に編入されたこと(ただし、なお独立を保った小邦も残存したことは『書紀』が7世紀代まで「任那」の遣使を記録することから推測できる)は、倭にとって格別痛手ではなかった。
 それよりも、百済の聖王が551年に新羅と合同して高句麗を攻め、旧都・漢城を奪回しながら新羅に裏切られて漢城を占領された末、554年には対新羅戦で戦死してしまい、約一世紀に及んだ羅済同盟が一転敵対関係に変わったことのほうが、倭にとってははるかに重大な国際関係の変化であった。

任那四県割譲」問題
 如上の「任那問題」と区別されるべきもう一つの「任那問題」は、辛亥の変の遠因ともなった継体6年の出来事「任那四県割譲」問題である。
 これは同年に百済が使いを送って上哆唎[おこしたり]、下哆唎[あろしたり]、娑陀[さだ]、 牟婁[むろ]の四県を譲るよう要請してきたことをめぐり、大伴金村と哆唎国国守・穂積臣押山はこれを認めようとしたのに対して、太子の勾大兄皇子は「応神天皇以来、宮家を置いてきた国を軽々しく与えてしまってはならない」として反対し、政権内部で意見対立が生じた一件である。
 ここで『書紀』は「任那四県」と記すが、この「四県」とは半島西南部の全羅南道栄山江流域から蟾津江[ソムジンガン]の求礼[クレ]付近の地域に比定されている。そうするとこのあたりは任那ではなく、むしろ旧馬韓の領域であるから、「馬韓四県」と呼ぶべきものであった。
 百済は北方の扶余族が南下して馬韓に建てた小国・伯済が次第に馬韓全域に領土を強大して強国化したものだが、馬韓でも最南部に当たる「四県」のあたりは後代まで未征服であったところ、475年の漢城陥落で王都を南の熊津に遷して以来、東城王代には父・昆支大王の統治する倭の支援の下にこの馬韓最南部への領土拡大を図っていたと思われる。
 ただ、この頃の百済は今だ復興途上にあり、征服地を自力で統治できないため、倭に統治を委任していたものと考えられる。その考古学的根拠として、この地域に倭流の前方後円墳が突如出現することが挙げられる。これはこの「四県」の委任統治に当たった押山のような現地総督級の官人や将軍の墳墓と推定される。勾大兄の指摘した「応神天皇(昆支大王)以来、宮家を置いてきた」云々とは、このような経緯を指しているものであろう。
 一方、継体6年当時の百済王は武寧王であったが、彼の代になると百済に中興の兆しが見え国力を回復したため、「四県」の割譲―正確には「返還」―を要請してきたというのが真相と思われる。
 結局、割譲容認派が勝利し(男弟大王も支持したと思われる)、「四県」は百済に引き渡される。しかしこの問題は尾を引いたらしく、容認派の金村や押山は百済から収賄したと中傷され、20年後に辛亥の変の遠因となったばかりか、30年後には欽明=獲加多支鹵大王が金村を引退させ、親政を開始する口実として使われるといういわくつきの問題であった。
 この「馬韓四県」問題が「任那四県」と記して伝承されたことも、後世になって「任那経営」の幻想を生み出す一つの要因となったかもしれない。

百済王子の出自を持つ昆支大王(応神天皇)を開祖とする「昆支朝」は、子の男弟大王(継体天皇)、孫の獲加多支鹵大王(欽明天皇)へと引き継がれ、特に異母兄から武力で王位を簒奪した獲加多支鹵は支配領域を拡大し、畿内王権を領土国家として大きく成長させることに成功した。
しかし、大王の没後、昆支朝はにわかに斜陽化していく。その過程で始まった「蘇我氏の専横」の真相とはどのようなことであったのだろうか。