歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第28回)

第七章 「昆支朝」の発展と継承

(1)男弟大王への継承(続き)

「継体」の分身像
 本章の冒頭で指摘したように、『書紀』が応神天皇の後継者としている「仁徳天皇」については架空説が根強いが、では「仁徳」は一からでっち上げの架空人物かと言うと必ずしもそうではない。
 実は「仁徳」とは―ちょうど「崇神」が「応神」の分身像であったのと同様の意味で―、継体=男弟大王の分身像として設定されたものと考えられるのである。
 その根拠として、まずどちらも徳が高くへりくだった人物として描かれていることが挙げられる。先述したように、継体ははじめ皇位に就くことを固辞し、重臣らが三顧の礼をもってようやく承諾させたとされているが、仁徳紀によれば、仁徳も弟の菟道稚郎子[うじのわきいらつこ]と皇位を譲り合った末、弟が自殺してしまったため、やむなく皇位に就いたというのである。
 この逸話は継体の‘三顧の礼’とは趣きを異にするが、「即位固辞」というモチーフは共通しており、要するに政治的野心のない謙虚な人柄が強調されているわけである。
 第二に、そうした人柄を反映して、両者とも徳治主義の実践者として描かれていることである。この点、継体紀は外交記事が多いためあまり目立たないが、継体天皇の所信は元年3月条の詔で言われる「天は人民を生み、元首を立てて人民を助け養わせ、その生を全うさせる」ということにあり、27年条に記された継体の長いモノローグ形式の詔でも「徳化を流布し、勝れた官人を登用すること」の重要性が強調されている。
 一方、仁徳のほうは「仁徳」という諡号どおり、徳治主義の政治そのものであって、その所信は仁徳7年4月条の詔にあるように、「天が人君を立てるのは、人民のためである」とされ、継体の詔と酷似する。仁徳67年条では、その事績について「天皇は早く起き、遅く寝て、税を軽くし、徳を布き、恵みを施して人民の困窮を救われた」と賞賛されている。
 第三に、そうした徳治政治の成果として、継体=仁徳の治世はどちらも五穀豊穣・天下太平の世として描かれている。
 実は、こうした徳治主義に連なる「天皇」がもう一人いる。それが「崇神」の後継者として登場する「垂仁天皇」である。この「垂仁」(=仁を垂れる)の諡号が「仁徳」と類似していることは直ちに気づかれるであろう。
 結論から言えば、「垂仁」は「仁徳」を再分割して作り出された継体の二つめの分身像にほかならない。垂仁紀には埋め草的な記事が多いため、その徳治主義の事績が鮮明には出てこないが、垂仁35年条に、その治世はやはり百姓が富み、天下太平であったと記されていることに、継体=仁徳との共通性が見られ、結局「継体=仁徳=垂仁」という等式が見えてくるのである。
 このような継体=男弟大王の描き方には、前節で述べたような事情からする誇張的オマージュが認められるとはいえ、男弟大王が「継体」(=体制を継ぐ)という諡号にふさわしく、在位およそ30年(477年頃‐506年)に及んだと見られる父・昆支大王の正統な後継者であったことは間違いないようである。
 儒教思想を踏まえて後知恵的に粉飾された「徳治」はともかくとして、「五穀豊穣」にそれなりの根拠があるのは、男弟大王時代には先代の昆支が開始した灌漑事業や治水事業も大規模かつ高度化したからである。
 例えば、仁徳紀では多くの池や大溝(用水路)、淀川流域の茨田堤[まむたのつつみ]をはじめとする堤防を築造したことが記されているほか、垂仁紀にも池や溝を八百余り築いたとの記事が見える。
 特に『記』の垂仁紀では秦人を動員して茨田堤や多くの堀も築造させたことが記されており、こうした灌漑・治水事業には、応神紀14年条にその祖・弓月君(ゆづきのきみ)が百済から120県の人民を率いて渡来してきたと記される秦氏の水利技能が大いに活用されたことがうかがえる。それはとりもなおさず、百済の水利技術の継承にほかならなかったわけである。
 一方、「徳治」という側面は、専制的であった父・昆支に比べれば、男弟大王が専制的手法を改め、重臣との合議を重視した姿勢を反映した描写であろう。この点、先に引いた継体24年の詔の中でも、「皇位を継いだ者として中興の功を立てようとするならば、どうしても賢明な人々の謀議に頼らざるを得ない」との台詞は、男弟大王の施政方針を最もよく言い表しているように思われる。
 実際、男弟大王は旧加耶系王権時代の軍事氏族であった大伴氏を起用し、時の氏族長・大伴金村は男弟大王の実質的な宰相として重臣たちを束ねていた。この金村は後にある重大事変のキーパーソンともなるであろう。