歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

松平徳川女人列伝(連載第6回)

九 千姫(1597年‐1666年)

 正室が形式上の妻にすぎず、子を作らないこともあった歴代徳川将軍の中にあって、2代将軍秀忠と正室の江(崇源院)の間には、五女二男があった。そのうち、長子にして長女が千姫である。生年は豊臣時代の慶長二年だが、彼女の人生もまだ多分に戦国的であった。
 初めは、わずか7歳にして豊臣秀吉の三男・秀頼と幼年婚をさせられ、大坂城に入った。あからさまな豊臣‐徳川両家の政略婚である。やがて迎えた大坂夏の陣では、家康の計らいで救出され、19歳の未亡人としていったん出戻る形になった。
 その後、今度は徳川譜代の桑名藩主・本多氏の嫡男に嫁がされる。この時、津和野藩主・坂崎氏による千姫略取の陰謀が発覚し、坂崎氏が改易処分となるというハプニングにも見舞われたが、無事本多氏に嫁いだ後は、初代姫路新田藩(姫路藩支藩)の藩主として転出した夫の本多忠刻に付いて姫路に入った。
 ところが、間もなく忠刻は夭折、千姫は再び未亡人となり、江戸へ戻り、天樹院として出家した。彼女の自立的な人生は、ここから始まる。出家といっても、隠棲したわけではなく、弟・家光の息子・綱重(甲府徳川家初代)の養母となって、大奥で強い発言力を保持したほか、女性の駆け込み寺として有名になる東慶寺に養女にした秀頼遺子の天秀尼を配し、仏殿寄進を通じて幕府公認寺院として確立した。
 千姫は聡明で父・秀忠のほか、祖父・家康や弟・家光からの信任も厚く、出家後は政治的な問題にも一定の関与をしたと見られる。反面、毎夜、男を屋敷に招き入れては殺害していたという奇怪な殺人鬼伝説の主ともなる汚名も後世着せられた。
 こうした悪女伝説は、男尊女卑の封建時代にあって自立していた女性にはしばしば付きまとうものであるが、将軍の室ならぬ姫が出戻って大奥で発言力を持つという事例は異例のため、反発もあったと見られる。彼女以後、同種の例は見られない。

十 徳川和子(1607年‐1678年)

 千姫と対照的な人生を歩んだのは、秀忠の末子で五女の和子である。千姫とは同母妹に当たる。幼名を松姫といった彼女が生まれたとき、すでに江戸幕府は成立しており、松姫も江戸城で誕生している。
 当時実権を握っていた大御所の祖父・家康は、京都でまだ10代の新帝・後水尾天皇が即位したのを機に、幼い孫の松姫を入内させることを思い立った。これは幕末の公武合体とは逆向きの言わば「武公合体策」であり、その狙いは当然にも、将軍家と天皇家を姻戚関係に置き、ひいては徳川家の血を引く天皇を誕生させることにあった。
 朝廷でもこの政略婚にメリットを見出したらしく、慶長19年(1614年)には和子入内の宣旨が発出された。しかし、その後大坂夏の陣や家康の死没などが重なり、延期となり、元和4年(1618年)以降、ようやく入内の運びとなる。
 ところが、天皇が寵愛していた女官のお与津御寮人が皇子を出産していたことが発覚し、これに怒った秀忠が上洛のうえ、天皇側近の公家を監督不行き届きの咎で処罰するという紛議が起きた。これを機に、幕府の朝廷介入が強まったとされる一件であるが、もとより幼い和子は一件に関わっていない。
 こうしたトラブルを越え、和子(濁音忌避の宮中慣習により、「まさこ」に改読)入内したのは元和6年(1620年)のことであった。入内といっても、初めは後宮序列二位の女御としてであったが、三年後には皇女・女一宮興子[おきこ]内親王を生み、事実上の皇后格である中宮に昇進した。
 結局、和子は天皇との間に、奇しくも母と同じく五女二男を生むが、二人の皇子はいずれも夭折したため、男系から徳川氏の血を引く天皇を誕生させるという家康本来の宿望は達成できなかった。
 しかし、長女の興子内親王は、父帝の譲位後に天皇として即位し(明正天皇)、奈良時代称徳天皇以来、実に859年ぶりの女帝となった。家康の念願どおり、徳川家の血を引く天皇の誕生であったが、実際には父・後水尾上皇院政下にあり、明正天皇は実権を持たなかった。
 そのうえ、後水尾譲位と明正即位が幕府に無断で行われたことに幕府は反発し、早期の譲位を望んだため、和子の計らいで、明正天皇は若くして異母弟に譲位することとなった。
 その後も、和子は緊張関係にあった朝廷と幕府の間をつなぐ仲介役を終生果たしたと見られる。とはいえ、和子の入内は朝幕関係にかえって摩擦を生じたため、将軍の娘が入内する形の「武公合体」は和子以降、二度と行われず、二度目となる将軍家と天皇家の婚姻は幕末を待つことになる。

欧州超小国史(連載第2回)

Ⅰ サン・マリーノ至穏共和国


(1)建国者・聖マリヌス
 サン・マリーノは、建国者とされる人物マリヌスの個人名をそのまま国名とする稀有の国である。石工出身と言われるマリヌスは名前しか判明していない半伝説的な人物であるが、まさに伝説によれば、彼は元来、アドリア海のアルバ島、現在はクロアチア領ラブ島の生まれであるとされる。
 アルバ島はかつてリブルニア人と呼ばれる古い民族が居住するところであったが、紀元前35年にローマ帝国によって征服されて以来、リブルニア人はローマ化され、言語もラテン語に置換されていった。紀元3世紀末から4世紀の人であるマリヌスも、そうしたローマ化されたリブルニア人であった可能性が高い。
 マリヌスは、早くにキリスト教に入信したようだが、当時、ローマ帝国領内でキリスト教はまだ禁教であった。時の皇帝ディオクレティアヌスは、ローマ帝国の全般的な混乱期であったいわゆる「3世紀の危機」を克服すべく、強権をもって国家再建に取り組み、その一環として、キリスト教の大弾圧を断行した。
 そのあおりでマリヌスは友人とともにアドリア海対岸のイタリアの町リミニに亡命し、その地でキリスト教助祭となり、地元で説法活動をしていたらしいが、そこでも迫害に直面する。彼の「罪状」は、マリヌスのせいで夫と疎遠にさせられたと主張する女性の告発によるとも、リミニの奴隷にキリスト教を説いたことによるとも言われる。
 そこで、マリヌスは改めてティターノ山に逃げ込み、そこに僧庵を立てて、隠者となった。彼の敬虔さは次第に評判を呼び、追随者が増えると、ティターノ山の所有者が彼に山を譲渡した。そして、301年、マリヌスはティターノ山を中心とする小さな国家を建国した。
 とはいえ、サン・マリーノが文献上に現れるのは、それから600年以上を経た10世紀も半ばのことであり、マリヌスによる「建国」は多分にして伝説的である。おそらく、当時は、開祖イエスの存命中と似て、マリヌスと彼の追随者による小さな信徒団にすぎず、身の安全上もローマ帝国キリスト教を正式に公認するまでは、隠遁生活を送っていただろう。
 ちなみに、マリヌスは366年に没する時、「私はあなたたちを、二人の男から自由にする」という謎めいた遺言を残したという。ここで言う「二人の男」とは、ローマ皇帝ローマ教皇を指すと解釈され、サン・マリーノは、帝権からも教権からも独立した地位を保つことが国是とされた。
 マリヌスは後にローマ教皇から列聖され、聖マリヌスとなった。正式国名Serenissima Repubblica di San Marinoに冠せられる「至穏」(伊:serenissima)という形容詞にも、隠者によって建国された宗教国家としての特異な歴史が表現されているとも言える。 

外様小藩政治経済史(連載第14回)

四 福江藩の場合

 

(1)立藩経緯
 福江藩は、五島列島全域を支配地とする[おそらく]唯一の離島藩である。藩主家は、鎌倉時代頃より一貫して五島列島の有力者であった五島氏が立藩から明治維新後の廃藩まで固定されたという点で、完全に土着固定型の藩であった。
 五島氏は旧姓宇久氏ともいい、平清盛異母弟の家盛が壇ノ浦の戦い後に五島列島宇久島に落ち延び、宇久氏の祖先となったと伝えられるが、実在の家盛は壇ノ浦より40年近くも前の久安5年(1149年)に夭折しているので、家盛祖先説は伝説の域を出ない。
 他に、清和源氏系武田氏を祖とするという平氏説とは矛盾する説もあり、結局のところ、宇久氏の起源は、多くの近世外様大名と同様に、不詳と言うほかない。確かなのは、宇久氏は倭寇の中心勢力と目された松浦党水軍に属する一派であり、列島北端の宇久島の島主から身を起こして次第に五島列島全域を支配下に収めるようになったことである。
 戦国時代になると、宇久氏第20代当主宇久純玄[すみはる]が豊臣秀吉の九州平定に協力し、五島列島1万2千石余りを安堵されたことで、五島列島の大名として確定した。宇久氏を五島氏に改姓したのも、純玄の代からである。
 ただ、五島氏はこの時代の多くの周辺九州大名と同様、キリスト教を信奉するいわゆるキリシタン大名であったことから、一族間でも宗派をめぐる対立が起きる中、純玄は自身洗礼名を持つ身でありながら、反キリスト教に傾く秀吉との関係を重視してか、キリスト教排斥策を採った。
 しかし、純玄は文禄の朝鮮出兵に参陣した際、陣中で疱瘡にかかり、夭折してしまう。彼には子がなかったため、後継問題が急浮上したが、五島家と懇意のキリシタン大名小西行長が仲介し、純玄叔父の玄雅[はるまさ]が、従兄弟の子・盛利を養子とするという複雑な条件で後継者となる異例の解決がなされた。
 玄雅はキリシタンであったが、朝鮮出兵への五島氏の協力ぶりを評価した秀吉から豊臣姓を下賜されるほどの豊臣忠臣であった。しかし、関ケ原の戦いでは中立を保ち、戦後に加藤清正らの説得で棄教したうえ、徳川家康から改めて1万5千石を安堵する朱印状を受け、初代福江藩主に納まったのであった。
 こうして、五島氏はキリスト教問題をめぐる時代の波にのまれながらも、数百年にわたる支配地・五島列島を守り抜き、近世大名としても一度も改易されず明治維新を迎えたため、福江藩は支配に関しては極めて安定した藩となった。