歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

ロマニ流浪史(連載第2回)

一 ロマニの原郷と移住

 
 ロマニの流浪史は、欧州に到達する以前と以後とに大別することができる。ロマニと見られる集団の存在が初めて欧州側の史料に登場するのは11世紀後半であるから、さしあたりは、この時代を境に到達以前と以後とを分けることができる。
 とはいえ、ロマニは独自の文字記録を残さなかったため、欧州側の史料で動向が確認できる欧州到達以後はともかく、到達以前の動向を探るのは困難で、この部分はほぼ空白となっている。そのため、ゲノム研究や比較言語学の研究を通じた間接証拠によって歴史を埋めるほかない状況である。
 その点、今日の研究によれば、ロマニの原郷はインド亜大陸北部と同定することでほぼ確定しているが、中でも今日のラージャスターン州とする説が有力である。ここで発祥した言わば原ロマニは、紀元前250年頃にパンジャブやシンドといったより北西部への移住を開始したとされる。
 紀元前250年頃と言えば、マウリヤ朝の高名なアショーカ王インド亜大陸全土の統一に成功した頃であるが、彼は当初、暴虐な君主で、統一の過程では後に自ら猛省して軍隊を廃止する決断をするほどの残酷な殺戮作戦を展開したため、原ロマニもそうした殺戮を逃れて集団で避難した可能性はある。
 一説によると、それ以前の紀元前300年代のアレクサンドロス大王のインド遠征に際しての避難移住民がロマニの祖というが、かれらの原郷がラージャスターンとすれば、大王のインド遠征の対象地域外となるので、この説には難点がある。
 いずれにせよ、原ロマニの移住がインド亜大陸北西部でとどまっていれば、流浪というほどのことはなかったが、紀元後5世紀代になって、インド亜大陸外への移住を敢行せざるを得ない事情が生じたらしい。想定されるのは、エフタルと呼ばれる中央アジア出自の騎馬遊牧勢力の襲撃である。
 その点、エフタルとも交戦していたササン朝ペルシャの皇帝バハラム5世が現在のパンジャブ州はムルタンからロマニの祖先1万人余りをペルシャに連行したという説があるが、これは「連行」ではなく、避難民の保護であったかもしれない。
 また同じバハラム5世がインドからリュートの名手1万人余りをペルシャに呼び寄せたとする説も同一事象の別伝と見られ、かつこの時代から原ロマニが音楽に長けていたことをも示唆する。
 こうして、原ロマニの最初期における移動ルートとして、インド亜大陸北部(ラ―ジャスタン)→北西部(パンジャブ等)→ペルシャというルートを想定することができそうだが、この段階では流浪というより、数百年単位に及ぶ段階的な移住である。

シリーズ:失われた権門勢家(第4回)

四 漢皇室劉氏

 

(1)出自
 戦国時代末期には楚に属した泗水郡沛県に出自する農民(富農)出自の侠客で、後に漢王朝前漢)を建てる劉邦に始まる皇室。ただし、前漢が滅亡した後、中断を経て漢王朝を再興した劉秀(光武帝)は、前漢6代景帝の七男である劉発(長沙王)の子孫という傍流の分家であるが、新たに皇室となったため、ここではこの家系を含めて漢皇室劉氏とみなす。

 

(2)事績
 漢王朝は初代皇帝となった劉邦が秦末動乱の中、風雲児として一代で築いた平民による典型的な下剋上王朝であるが、劉邦(太祖)の没後も長期的な成功を収めて、古代中国から今日まで続く漢民族系中国の土台を築き、漢を中国の代名詞化した。一度滅亡しながら、同一家系が短期間で再興を果たし、前漢後漢と通じて400年に及ぶ王朝時代を築いた点でも、世界史的に例を見ない事績である。

 

(3)断絶経緯
 184年に始まる黄巾の乱により混乱が拡大する中、後漢最後の皇帝となった献帝ははじめ実権者である軍人の董卓、次いで三国鼎立時代の魏を建てた曹操の傀儡となった。曹操が死去した220年、献帝曹操を継いだ息子の曹丕禅譲して、山陽公の地位に退いた。山陽公劉氏は魏の滅亡後、西晋時代まで存続するが、永嘉の乱(307年‐312年)の渦中、献帝の玄孫に当たる劉秋が殺害されて断絶した。

 

(4)伝/称後裔氏族等
 東晋時代になって、山陽公末裔の捜索を命ずる詔勅が発布されたが、実現していない。もっとも、三国時代蜀漢を建てた劉備前漢景帝の九男・劉勝の子孫(庶流)を称していたが、これも確証がないうえ、劉備の子孫も永嘉の乱で殺害された。
 ただし、劉備の曽孫に当たる劉玄は乱を逃れ、成都に建国したチベット系の成漢に庇護され、東晋時代には改めて山陽公の称号を与えられて、子孫は東晋最後の元熙年代(419年‐420年)まで存続したとされるが、その後の系譜は不明である。
 なお、東晋を打倒して南朝宋を建国した劉裕劉邦の異母弟である劉交(楚元王)の子孫を称したが、確証はなく、仮冒と見られている。その他、いくつかの王朝の開祖が劉氏裔を称するが、いずれも確証がない。
 ちなみに、日本の渡来系古代支族・東漢[やまとのあや]氏の祖・阿知使主[あちのおみ]は後漢第12代霊帝の後裔とする伝承もあるが、これは東漢氏後裔の貴族である坂上氏(後裔として他に大蔵氏など多数)の家伝主張である。

もう一つの中国史(連載第5回)

二 西南中国の固有性


(1)四川文明と巴蜀
 今日、中国西南部の主要な省として四川省が存在するが、1980年代になり、同省広漢市の三星堆遺跡で、前2000年かそれ以前にも遡る高度文化圏の存在が明らかになった。
 四川盆地は長江の上流に当たるため、この文化圏も広い意味では南中国の長江文明に含めることは可能だが、四川文化には怪物をあしらったかのような異形の青銅製仮面や人物像に象徴される固有の特色が認められることや、地理的にも長江文明中心地から隔たった辺境地であることから、独自の四川文明圏を形成した可能性が想定される。
 史料上はこの地域にはかつて独立国として蜀(古蜀)があったとされることから、蜀は四川文明を基層とした国家であると推定されている。四川文明・蜀の担い手民族については不詳であるが、四川省には今日でも西部・南部を中心にチベット少数民族が居住することからして、四川文明の担い手もチベット系だった可能性はある。
 ただし、蜀の王権には複数回の交代の形跡があり、最終的に今日の成都を拠点に王室を担った開明氏は楚から入ったとされる。そうだとすれば、蜀は最終的に楚人系の勢力に征服されたと見ることもできる。
 蜀は殷最後の暴君紂王の討伐と周王朝の樹立に貢献した後は周に属したと見られるが、辺境地のため、実質上は独立国であり、周が事実上滅亡すると、いち早く王を称して自立した。しかし、地理的条件からも春秋・戦国期の抗争の外にあり、結果として独立を保ったようである。
 一方、蜀の東隣には現在の重慶付近を拠点とする巴があった。巴も蜀と同様に周王朝樹立に貢献している。戦国時代の巴は東の楚とは通婚関係にあった。巴人の末裔民族の一つとしてチベット系のトゥチャ族が想定されているが、古代国家としての巴は多様な民族集団の連合体であったと考えられている。
 巴蜀はともに塩の生産を経済基盤として発展したが、ライバル関係でもあり、しばしば交戦した。最終的に両国が滅亡した要因も、その対立関係を新興の秦に利用・介入されたことにあった。