歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

ノルマンディー地方史話(連載第2回)

第2話 ノルマンディーの形成(2)

 
 バイキング指揮官から初代ノルマンディー公(正確にはルーアン伯)におさまったロロには、記録上フランス王女ジゼルのほかに、ポッパという妻がいた。彼女はハイキング勢力によるパリ包囲後に囚われたルーアン伯の娘とされる。要するに、ロロは捕虜の娘を娶ったことになる。ポッパ自体が「戦利品」だった可能性もある。
 ロロはポッパとの間にギヨームという息子をもうけた。そして、このギヨーム1世が930年前後のロロの没後、後を継ぐこととなったのである。このような地位の世襲は封建領主では普通のことだが、身分の上下関係もないバイキング勢力にとっては異例のことであり、バイキング的でない。なぜこのようなことが可能となったのだろうか。

 
 中世における封建領主に不可欠な基盤として、土地と領民に加え、騎馬兵力がある。封建領主は平時は農奴を使用する地主農業経営者であると同時に騎士であり、戦時には武将でもあったからである。その点、初代のロロには「徒歩公」という異名があったが、これは騎乗するにはロロは巨体すぎ、いつも徒歩で移動していたという逸話による。
 この逸話の反面として、彼のバイキング軍勢は騎馬兵力を備えていたことが示唆されている。バイキングは圧倒的に水軍勢力であったが、大陸に侵入し、転戦する間に、戦略的な必要上、騎馬戦闘力も体得していたのだろう。こうした水軍勢力からの転換―脱バイキング化―は、初代ロロの時代にある程度は進んでいたと見られる。これがノルマンディーに定着し、封建領主化したバイキングと他のバイキング勢力との分かれ道だったかもしれない。

 
 こうして二代目となったギヨーム1世の異名は、「長剣公」である。これは彼がバイキング伝統の短剣ではなく、大陸のフランク人伝統の長剣を好んだとされる逸話による。ギヨームはフランク人の母を持ち、多分に形式的だった父ロロの受洗とは異なり、キリスト教徒として育成されたから、文化・習俗的な面での脱バイキング化が父より進んでいたに違いない。
 このことが父の代からの古参の元バイキングたちを反発させ、933年に反乱が起きたとされる。しかし、反乱はギヨームの「フランク人化」という文化的な理由だけでなく、この時代のノルマンディーではなお平等性の高いバイキング気風が残されており、領主の世襲ということへの反発もあったと考えられる。しかし、ギヨームはこの反乱を粉砕し、他のノルマン人たちに優越し、君臨する二代目領主としての地位を固めた。

 
 とはいえ、周辺地域にはブルトン人やフランドル伯など土着の勢力が割拠し、ノルマンディー公国としての領域確定には程遠かった。このうち、西フランク王ラウールから安堵されたブルターニュではブルトン人が強く抵抗し、一度はこれに勝利したものの、939年、ブルトン人首領アラン2世に破れ、ブルターニュ公国の建国を許した。941年には、時の西フランク王ルイ4世の仲介でブルターニュとの和平条約に署名している。
 他方、北方から南へ領域拡大を狙う野心的なフランドル伯アルヌルフ1世は最大の宿敵となった。そして彼のために、ギヨームは命を落とすことになる。942年、アルヌルフとの会談のため滞在していたピキニーで彼の軍勢の待ち伏せ攻撃を受け、死亡したのである。