歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

ノルマンディー地方史話(連載第9回)

第9話 バイユー・タピストリ

 
 ノルマンディー公国のギヨーム2世によるイングランド侵攻・征服は英国にとどまらず、欧州の歴史を変える大事変であったわりに、映画やドラマなどの題材にされることは意外に少ない。比較的最近では、2015年に『ギヨーム―若き征服者』というフランス映画が制作されたが、ほぼB級映画である。
 勘ぐれば、英国側では現英王室の血統上の遠祖がギヨーム=ウィリアム1世征服王であることから、現英王室自体が外部侵略の上に成立しているという事実が前面に押し出されることは、政治的な機微に関わるのかもしれない。
 一方、フランス側では、征服王の時代のノルマンディーは法的にフランス王の領土ながら、事実上は独立国であり、イングランド征服もフランス王国自体の事業ではなかったことから、あまり関心がないのかもしれない。あるいは後の英仏百年戦争につながった経緯から、こちら側でも政治的機微に関わるということも考えられる。

 
 そうしたことから、ノルマン人の征服に関しては、有名なバイユー・タピストリーが今日でも最も有力な描写作品であり続けている。タピストリーと通称されているものの、実際のところ、タピストリーの技法は征服の後に始まった十字軍が東方から持ち帰った手織り絨毯に由来するもので、征服の時代にはまだ欧州にはなかった。よって、この作品の「正体」は、刺繍品である。
 それにしても、バイユー・タピストリーは一つの戦争を漫画のように連続ストーリー化して綴ったビジュアル戦記のような性格を持ち、世界的にも希少な作品である。それだけに、英国征服を企てるナポレオンがプロパガンダ目的でパリへ持ち去ったり、第二次大戦中にはフランスを占領したナチスドイツの略奪品となったりした末、ようやくバイユー・タペストリー美術館という専用の安住地を得たものである。

 
 製作者に関しては、長らく征服王の妻マティルダ妃とされていたが、現在では征服王の異父弟でバイユー司教のオドーと見られている。いずれにせよ身内が征服を記念し、後世に残す政治的な目的をもって制作した以上、その内容は当然にも征服王にとって都合のよいものとなっているが、そこには当時のノルマン人の武器や戦術が活写されている点で、貴重な軍事史料でもある。
 全体として言えることは、この征服作戦が入念に準備されていたこと、ノルマン人が水陸両用の強大な軍事力を持っていたことである。船舶に関しては、バイキング時代からの機動的な造船技術が継承されていたことがわかる。それに加え、ノルマンディー定住後に整備された騎馬戦力が合わさって、公国は当時の欧州でも最強クラスの水陸戦力を保有するに至っていたのである。
 征服作戦が短期間で決着したのは、当時のアングロサクソン王国が分裂しており、南からも謀反人の王弟トスティと彼の後ろ盾のノルウェー王が侵攻し、挟撃されたことにもよるが、挟撃がなくとも、アングロサクソン側に勝ち目はなかったに違いない。

 
 ところで、タピストリーにはいくつか謎がある。中でも最後のシーンおよそ7ヤード分が欠落していること。この部分は、ウィリアム1世の英国王戴冠の場面と推定されているが、このまさしく最後を飾るシーンが欠落しているのはどういうわけだろうか。
 欠落の経緯・理由は今も不明だが、ここでも勘ぐれば、征服によってイングランドを乗っ取ったという事実を強調することは、ウィリアムに始まるノルマン朝イングランドの正統性に疑問を投げかけることになりかねないことを懸念した王朝関係者が、あえて戴冠シーンを切り去り、タピストリーを戦記ものとして純化しようとした・・・ということも考えられるのではなかろうか。
 ちなみに、2018年、フランスのマクロン政権は従来、貸し出し不可の秘宝とされてきたバイユー・タピストリーを英仏文化交流事業の一環として、英国に貸し出すことを決めた。英国が欧州連合離脱に向かう中、タピストリーが新たな政治的意味を帯びているのだろうか。