歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

シリーズ:失われた権門勢家(連載第6回)

六 カロリング

 

(1)出自
 メロヴィング朝分国アウストラシアの宮宰ピピン1世(老ピピン)を家祖とするゲルマン系フランク族の豪族。老ピピンの父の名がカールマンと伝えられることからカロリングの家名がついたが、カールマンの事績は不詳で、老ピピンの時に台頭した。
 以来、カロリング家はアウストラシア宮宰職を世襲し、老ピピンの庶孫に当たるカール・マルテルフランク王国全体の宮宰となる。その後、彼の次男ピピン3世がメロヴィング朝を廃し、自らカロリング王朝を開いた。

 

(2)事績
 カール・マルテルイスラーム勢力との戦争で活躍し、その西欧侵出を食い止めた功績から全フランク王国の実質的な君主に近い最高実力者となった。そうした基盤の上に、彼の孫カール大帝フランク王国イベリア半島ブリテン島を除く西欧のほぼ全域に拡大した。
 カールは西暦800年にローマ教皇から帝冠を授けられ、滅亡して久しい西ローマ帝国以来となるキリスト教帝国を築いた。これは後のゲルマン系神聖ローマ帝国の先駆けであり、西欧中世の基盤ともなった。さらに、帝国はゲルマン式分割相続の慣習に基づき、大帝の没後、子孫によって分割されたことから、今日のフランス、ドイツ、イタリアの三国の基礎が形成された。

 

(3)断絶経緯
 814年のカール大帝没後、数次の条約を経て、最終的に帝国は西フランク王国東フランク王国イタリア王国に分割され、それぞれを大帝の子孫が治めたほか、大帝が多妻・子沢山であったため、各王家以外にも多数の支分家が派生したにもかかわらず、いずれでも継嗣なしの断絶が相次ぎ、男系は12世紀末までに全滅した。

 

(4)伝/称後裔氏族等
 カール大帝の子イタリア王ピピンの子ベルンハルトの子孫はフランス貴族として定着し、その後裔ヴェルマンドワ伯家が最も持続したカロリング家の支分家であったが、その宗家も13世紀初頭の女伯エレオノールをもって断絶した。
 ただし、ヴェルマンドワ伯家女系を通じてフランス王室カペー家、ドイツ貴族コンラディン家(後にドイツ王家)やフランス貴族ブロワ家にかすかながら血統を残した。
 ことにブロワ家の血筋は同家から唯一のイングランド王となったスティーブンの王女マリーの子孫でエドワード3世妃となったフィリッパ・オブ・エノーを介して現英国王室にも受け継がれているが、もはや直接のカロリング家後裔とは言えない。