跋
日本の天皇制のスローガンは、「万世一系」である。しかし、これは既にして虚構的なイデオロギーである。少なくとも、天皇の称号と制度が整備された天武天皇時代以降に絞っても、実質的に王朝交代とみなしてよい断絶が二度あった。
一度目は、奈良時代末期の女帝で実子のなかった称徳天皇から八親等以上離れた光仁天皇に継承された時である。光仁天皇の皇子が桓武天皇となり平安朝を開くことになるが、この王朝は称徳天皇まで天武の親族・子孫が歴代天皇を継承した「天武朝」に対して、始祖の名を取って「光仁朝」と呼ぶことができる。
しかし、鎌倉時代後期になると、「光仁朝」内部で皇統が持明院統と大覚寺統の二系統に分裂し、両統から交互に天皇を出すといういわゆる両統迭立が慣例となる。この慣例が破られて南北朝の動乱となるが、勝利したのは持明院統=北朝であった。
南朝最後の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位して動乱を最終的に終息させた明徳三年(1391年)の和約と呼ばれるものも、事実上は既に衰微していた南朝の「降伏」に近いものであって、和約条件として約束された両統迭立も果たされる見込みのない空手形であった。
北朝嫡流最後の称光天皇が実子なくして死去した後(皇太弟の小川宮も先立って夭折)、再び八親等以上離れた伏見宮家から出た後花園天皇に継承されたことで、二度目の実質的な王朝交代が起きた。これ以降は言わば「伏見朝」であり、この系統が今上天皇まで継続しているのである。―より厳密には、江戸時代の光格天皇は東山天皇の第六皇子・直仁親王(光格の祖父)が創設した閑院宮家系であり、以後の歴代天皇はこの系統の子孫であるから、「閑院朝」と呼ぶべきかもしれないが、広い意味では閑院宮家も伏見宮家からの分家である。
こうした中で、裏切られた後亀山の吉野帰還という抗議行動、さらに孫の小倉宮聖承以降の南朝再興運動が隆起していく。しかし、それは結局失敗し、彼らは実現見込みのない南朝再興という大義のために血を流したことになる。それを愚挙と見るか、義挙と見るかは歴史観や価値観の問題に属するだろう。
ところで、筆者が本連載をものする中で並行的に脳裏に想起していたのは、英国におけるジャコバイト運動であった。ジャコバイト運動は1688年の名誉革命で王位を追われたステュアート朝のカトリック王ジェームズ2世とその子孫が王位回復を求めて起こした世代を継いだ抵抗運動である。
これは近世の出来事であり、指導者の本名も史料に残されなかった南朝再興運動とは異なり、運動指導者名は史料上残されている。特にジェームズ2世次男のジェームズ・フランシス(通称・老僭王)とその長男のチャールズ(通称・若僭王)の父子が代表者である。
彼らはステュアート家の故地であるスコットランドの秘境とも言えるハイランド地方の氏族勢力に支持され、カトリック王統の回復のため戦ったが、当時のイングランドでカトリック王統が受容される見込みは乏しく、成功しなかった。見込みのない大義のため血を流した点では、南朝再興運動と重なる部分もある。
チャールズ若僭王には成人まで生存した実子は庶子の娘しかなく、家督は弟のヘンリーに継承されたが、彼は枢機卿にまで昇進したカトリック聖職者であり、ジャコバイト運動には関与しなかったため、運動は事実上終息、独身で子も残さなかったので、ジェームズ2世の嫡流は断絶した。
その後、ジャコバイトの主張する王位はジェームズ2世の妹ヘンリエッタ・アンの血を引くイタリアのサルデーニャ王家に形式上継承されたが、かれらがイングランド王位を請求することはなく、南朝子孫を主張した熊沢家のように後裔を名乗る一族も出ていない。