四 通蔵主/金蔵主(?‐1443年)
禁闕の変で真の首謀者と推定される鳥羽尊秀こと小倉宮教尊に代わって南朝勢力のシンボルとして前面に押し上げられたのが、通蔵主と金蔵主の兄弟僧侶である。兄弟の系譜については同時代的にも小倉宮流とする説と護聖院宮流とする両説があったが、「現在の研究では、護聖院宮家の方を採るのがふつう」(森重暁)とされるので、本連載でもこれに従う。
護聖院宮とは後醍醐裔の一つであり、近年の研究では家祖は後亀山天皇の弟・惟成親王とみなされている。惟成親王は南朝時代には後亀山の東宮(皇太弟)であったとも考えられているが、南北朝統一によって皇位に就くことはなかった。
惟成親王は統一後は比叡山延暦寺の有力坊院である護聖院に隠棲し、その子息と見られる世明王も南朝再興運動には不関与であったため、護聖院宮家は幕府・北朝に従順と見られているが、必ずしもそうではなかったことを示すのが、世明王の子息であった通蔵主/金蔵主兄弟、そして次項で見る兄弟の叔父に当たる円胤の存在である。
通蔵主/金蔵主は父の世明王が永享五年(1433年)に死去した後、幕府の政治的保安措置として足利将軍家ゆかりの臨済宗相国寺喝食(食事伝達係の雑役僧)として出家させられた記録があるが、その後、蔵主(経蔵管理僧)となったと見られる。
変の当時、兄の通蔵主は引き続き相国寺に在籍していたが、弟の金蔵主は万寿寺に移籍していたようである。ちなみに、万寿寺も臨済宗東福寺派寺院で、相国寺とともに、京都五山の一つの名刹であった。
変の当時の二人の年齢は不明であるが、蔵主は通常少年僧の役目ということから、14、5歳を想定する説がある。しかし、系図上、兄弟は教尊の父・小倉宮聖承の従兄弟であるから、実際には教尊より年長の成人に達していたものと考えられる。
二人と真言宗勧修寺に所属した教尊の接点は、宗派は違えど、意に反して僧籍に入れられた境遇の近さであったろう。通蔵主/金蔵主も、教尊の考えに共鳴し、彼の計画を熟知したうえで正体を隠して計画の指揮に当たった彼の身代わりとして積極的に変に参画したものと思われる。
しかし、結局のところ計画はクーデターとしては完全な失敗に終わり、金蔵主は比叡山上で討たれた。兄の通蔵主は捕縛され、京へ送致されたが、主犯格ではないと認定されたのか、流罪となるも、護送中「原林」なる者によって殺害された。「原林」の素性や役目は不明であるが、幕府の刺客だったかもしれない。かくして、通蔵主/金蔵主兄弟は共に壮絶な最期を遂げた。
五 円胤(1407年?‐1447年)
禁闕の変の後、南朝勢力の拠点はさらに後退し、奥吉野を越えてさらに奥の紀伊北山に追い詰められていた。紀伊北山は現在、四囲を他県に囲繞された日本唯一の飛び地である和歌山県北山村に比定される山間地である。
変から四年後の文安四年(1447年)末に、この地で南朝勢力の武装蜂起が記録されている。この時にシンボルとなった南朝後統に関しては同時代の情報が錯綜しているが、共通項は「円満院」の僧侶ということである。
円満院は天台宗系単立の門跡寺院で、創建経緯には諸説あるが、近江の天台寺門宗総本山・園城寺の明尊大僧正が長久元年(1040年)に後朱雀天皇の支援を受けて京都岡崎に新寺を創建し、「圓滿院」と命名したとの由来が信頼できるようである。江戸時代初期に園城寺と同じ近江に移転したとされるので、15世紀の円満院は京都岡崎にあった。
この寺院には護聖院宮家祖・惟成親王の子である円悟と円胤の兄弟が在籍していた。この兄弟は、通蔵主/金蔵主兄弟の叔父に当たる。円胤は弟であり、文安四年の南方決起を記す史料の一つに「円満院付弟」「円満院前門主」などとあるのは、円胤と推定される。
円胤は大僧正の称号を保持する高僧であったが、1444年頃に還俗して紀伊北山に入り、南朝再興運動に身を投じたと見られる。それほどの高僧の還俗となれば当時の史料にも現れそうであるが、特に記録がないのは、病気その他何らかの口実を設けてそれこそ円満に円満院を退院したためかもしれない。
円胤のこうした突然の転身の胸中として、禁闕の変で壮絶な最期を遂げた甥たちへの追慕や、面識の有無は不明ながら又従兄弟に当たる小倉宮教尊のことも念頭にあり、自らが立たねばならないとの決意があったのであろう。
しかし、京都から離れた紀伊での蜂起に成功見込みは乏しく、時の紀伊守護・畠山持国によって直ちに鎮圧された。討ち取られた「南方宮」すなわち円胤の首は実検のため、京へ送られた。
本来なら謀反人として首が獄門に晒されるはずのところ、時の関白・一条兼良は晒しを禁じる指示を出した。逆賊とはいえ、高貴の身分であることに配慮し、検非違使を河原に派遣して実検するにとどめたのであった。
かくして、護聖院宮から出た三人の南朝後統による義挙もすべて失敗に終わることとなったが、禁闕の変で奪取に成功した神璽はその後も十数年にわたって旧南朝勢力の手中にあり続け、幕府・朝廷は血眼になってその所在を探索し続けるのである。