歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

神道と政治―史的総覧(連載第13回)

四 神道の軍事化

戦国時代と神職武家
 戦国時代に入ると、神職武家もいやおうなく戦国動乱に巻き込まれていく。織田氏神職出自説を採るなら、神職武家として最も強大化したのは織田氏だったことになるが、これは前回も述べたとおり、仮説的な域を出ていない。
 前回見たうち、織田氏を除く鈴木・諏訪・阿蘇の三氏の中で最も成功を収めたのは武士団棟梁として高度な軍事組織を擁していた諏訪氏であった。
 諏訪氏は内紛渦中で幼年にして当主となった諏訪頼満が成長後、巧みな手腕で領国を拡大し、武田氏を押しのけ諏訪地方の戦国大名にのし上がった。頼満から家督を継承した孫の頼重は時の武田氏当主・信虎の娘を正室に娶り、自身の娘も信虎の息子・晴信(武田信玄)に嫁入りさせるなど、武田氏との姻戚同盟関係が強化された。
 しかし、武田氏側で信玄が父を追放して主導権を握ると状況が一変し、諏訪氏は武田氏の進撃により降伏、頼重は甲府に連行後、弟とともに自害させられた。これにより、諏訪惣領家は滅亡するが、頼重従弟の頼忠は武田氏に臣従し、諏訪大社大祝としての地位を認証され、武田氏滅亡後に諏訪氏の当主を継承した。彼はいったんは対立した徳川氏とも和睦して諏訪地方を安堵されるが、後に上野総社に移封させられた。
 頼忠嫡子の頼水は関ヶ原の戦いで東軍に付き、功績を上げたことで改めて諏訪地方を安堵され、初代高島藩主となり、近世大名家諏訪氏の祖となった。その後、諏訪氏は大名家と大祝家に分離されたため、ある種の政教分離がなされ、宗教的権威を背景とした祭政一致的領国経営は廃止された。
 他方、肥後地方で下克上して戦国大名化していた阿蘇氏は、阿蘇惟豊の時代に最盛期を迎えた。しかし、彼の二人の息子が相次いで死去し、孫に当たるわずか2歳の惟光が当主になると、当時の新兵器であった鉄砲をいち早く取り入れた薩摩の島津氏の侵攻を受け降伏、惟光は山中に逃亡した。
 その後、惟光は加藤清正に庇護され豊臣秀吉九州征伐を何とか切り抜けるが、秀吉は阿蘇氏の大名としての特権を一切認めなかったうえ、島津氏家臣が首謀した梅北一揆に家臣が参加したことを理由に12歳になった惟光を斬首する非情な措置により大名阿蘇氏の再興を阻止したのである。
 ただし、惟光の弟が加藤氏の援護を受け、阿蘇神社大宮司を継いだことから、阿蘇氏は純然たる神職として改めて再興され、存続していくことができた。
 藤白鈴木氏戦国大名化することなく、戦国武将として織田信長本願寺勢力が争った石山合戦本願寺側に付いたため、敗北後は神領を失い、没落した。ただし、分家の雑賀党鈴木氏は信長、次いで豊臣秀吉に服属して命脈を保った。
 なお、伊豆に移った分家の江梨鈴木氏は鎌倉公方の水軍総大将を務め、戦国時代にも後北条氏の伊豆水軍武将として活躍したが、秀吉の小田原攻めで主君と運命をともにし、傍流は陸奥に落ち延びて、八戸藩郷士となった。