二 小倉宮聖承(?‐1443年)
小倉宮聖承は小倉宮恒敦の長子と思われる子息である。聖承は法名で、俗名は記録されていない。しかし、その事績については父よりも多くのことが判明している。というのも、「皇位の回復のため最も派手に動き回ったのは、この二代目小倉宮聖承である」(森茂暁)からである。その意味で、小倉宮家が南朝再興運動に乗り出す契機を作ったのは聖承が初めと言える。
その生涯は出家前と出家後に大きく分かれる。「派手に動き回った」のは、主に出家前のことである。その契機となったのは、南北朝統一後では二代目となる称光天皇の後継問題であった。
時の称光天皇は病弱なうえ、武器の扱いを好んで玩び、金の鞭で近臣や女官を打ち据えるなど種々の奇行癖もあり、心身に問題の多い天皇であったが、皇子がないまま、正長元年(1428年)七月に夭折した。
これにより持明院統(北朝)嫡流の断絶が確定したが、朝廷・幕府は既に称光天皇とは親等がかけ離れた遠縁に当たる伏見宮貞成親王の子・彦仁王(後花園天皇)の擁立を内定していた。これは南北朝統一時の両統相代の約束にも反し、実質上王朝交代にも等しい皇位継承であった。
聖承は称光天皇後継に自身の子息の擁立を要望し、申し入れをしていたと見られるが、彦仁王擁立を既定路線とする朝廷・幕府は聞く耳持たずであった。こうした態度に憤激したであろう聖承は天皇の死去に先立つ正長元年(1428年)七月、南朝支持派の有力者で守護大名的な勢力を張っていた伊勢国司・北畠満雅のもとへ走った。
北畠満雅はかねて幕府と対立していた鎌倉公方・足利持氏と連携して挙兵するも、持氏からの直接の軍事援助は得られず、正長元年十二月に敗死した。これにより後ろ盾を失った聖承は和睦の道を選択するが、条件として諸大名からの援助を生活費に充てること、子息(法名・教尊)を将軍・足利義持の猶子としたうえで真言宗勧修寺門跡に入室させるということとなった。
しかし、諸大名からの援助は滞りがちで、経済的に困窮したため、聖承は時の僧衣の宰相格でもあった三宝院満済に対して窮状を訴えるも、埒は明かず、永享六年(1434年)、ついに出家に追い込まれた。この時名乗った法名が聖承であり、こちらだけが史料に残されたのである。
こうして父子共に僧籍に入ることとなったのも、幕府による旧南朝対策の一環であった。もはや皇位回復の芽は潰えたと思われたが、チャンスはもう一度訪れる。恐怖政治で悪名高い将軍・足利義教の時代、嘉吉元年(1441年)に、有力守護大名の赤松父子が義教暗殺のクーデターを起こす。
この嘉吉の乱に際して、赤松側は将軍に足利尊氏の庶子・直冬の孫とされる人物を擁立するとともに、本国播磨に聖承の末子を奉じようとしたのである。要するに、嘉吉の乱とは、赤松氏による将軍立て替えと南朝復旧とを目指すクーデターであったと言える。
クーデターが成功していれば、南朝の復権もあり得る事態であったが、聖承の末子擁立は実現せず、赤松氏は幕府が差し向けた山名宗全らの軍勢によって討伐された。こうして、二度目のチャンスも幻となったのである。
この嘉吉の乱に聖承が関与していたかどうかは不明であるが、幕府から何ら処分されていないところを見ると、無関与もしくは関与が立証できなかったのかもしれない。いずれにせよ、出家後の聖承の動向はとみに不詳となり、嘉吉三年(1443年)二月には重病が伝えられ、同年五月に死去したことが記録されるのみである。
ただし、その死去から四か月後の嘉吉三年九月に京都を震撼させた重大事変が起きる。後は後花園天皇暗殺を狙う南朝支持集団が禁裏を襲撃し、三種の神器のうち二つを強奪、神璽は持ち去った事件(禁闕の変)である。
この時点で世を去っていた聖承が直接に実行犯として関与することは不可能であるが、あるいは数年がかりで入念に計画されていたと見られる事件の事前謀議に加わっていたこと、より想像をたくましくすれば自ら首謀していたことを否定し切れるわけではない。この件については、聖承子息の教尊に関する次項で改めて検討する。