歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

もう一つの中国史(連載第6回)

二 西南中国の固有性

 

(2)「秦滅巴蜀」から「屠蜀」まで
 漢民族系では最西端に発祥し、次第に強勢化した秦は南の楚の征服を当面の目標に定めていたが、その際、長江沿いに並ぶ穀倉地帯である巴蜀の征服は楚への水路を確保し、攻略を優位に進めるうえで得策と考えられた。
 折から、蜀では王弟が敵国である巴と通じたとして討たれ、巴に亡命、巴が秦に救援を要請してくる事件があった。時の秦の恵文王はこの機会を利用し、蜀の征服を企て、蜀に侵攻、一挙にこれを滅ぼした。返す刀で巴も滅ぼし、ここに巴蜀はあえなく滅亡した。前316年のこととされる。
 こうして、巴蜀は戦国時代中期には歴史の表舞台から消え、秦・漢の時代には帝国の辺境地の地位に甘んじた。だが、蜀の地名と住民はその後も絶えることなく続いていく。次に蜀の名が歴史に登場してくるのは三国時代のことである。
 劉備が三国の一つ、蜀漢前漢時代から益州と呼ばれるようになっていた旧巴蜀の地に建てるのは221年である。蜀漢は便宜上古名の蜀を冠せられているものの、漢王室の末裔を称した劉備をはじめその支配層は西遷してきた漢民族系豪族であった。しかし、古蜀を構成した民族はなお残留していたと見られ、蜀漢の被支配庶民層を形成していたものと考えられる。
 この蜀漢も長続きせず、劉備を継いだ劉禅が魏に投降、わずか二代で終焉して、旧巴蜀の地は魏の領土となり、次いで西晋へと継承されていく。その後も五胡十六国時代には成漢(氐族系)、後蜀、さらに五代十国時代にも前蜀後蜀といった短命な国家が成立するなど、旧巴蜀の地にはしばしば独立政権が建てられた。
 北宋の時代になって、旧巴蜀の地は四川路として再編され、今日の四川省に通じる新地名が成立する。さらに時代下り、明末、武装蜂起した農民反乱軍指導者・張献忠が四川の地で独立政権を樹立する。この際、張献忠は四川で現地民大虐殺を断行し、古代以来の蜀人は絶滅したとされる。これがいわゆる「屠蜀」である。
 「屠蜀」の存否や犠牲者数に関してはこの種の反人道的事象の常として論争があるが、いずれにせよ、この時代以降、人口が急減した四川地域には漢民族の大量移住の波が生じ、現在の四川省住民は大半が漢民族系で占められている。
 確証はないが、前回も指摘したとおり、現在も四川省西部・南部にわずかに居住するチベット少数民族の少なくとも一部が「屠蜀」を逃れた蜀人の血を引いている可能性はあるのかもしれない。