歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

欧州超小国史(連載第6回)

Ⅰ サン・マリーノ至穏共和国


(5)伊統一運動と米南北戦争との関わり
 イタリアは(西)ローマ帝国の崩壊以来、小国分立の状態にあり、サン・マリーノもそうしたイタリアの中の特殊な由来を持つ小国の一つであった。しかし、19世紀に入ると、イタリアでは統一運動(リソルジメント)が隆起する。
 リソルジメントは19世紀初頭から後半にかけて非常に長期に及んだイタリア国家の誕生過程とも言えるが、その間も、サン・マリーノがリソルジメントに加わることはなかった。リソルジメントの英雄であるジュゼッペ・ガリバルディが本格的な統一運動を開始した時も、この運動の外に身を置いていた。
 とはいえ、国内では統一派と独立派の党争が激化し、政治的暗殺事件も相次いだ。そうした混乱を利用して、リソルジメントに直面していた教皇庁はサン・マリーノを再び領有しようと画策したが、成功することはなかった。
 サン・マリーノとリソルジメントの関係は微妙であり、当初はオーストリア軍に追われて領内に避難してきたガリバルディにも冷淡であったが、最終的にはガリバルディを含む多くの活動家の亡命を認めたため、この時期、サン・マリーノは政治亡命地となった。
 そのような恩義もあってか、1862年にイタリア統一が成った時も、サン・マリーノの独立と両国の友好協力関係が保障されたのである。サン・マリーノの近代的な意味での独立はこの時に成立したと言え、それはイタリア統一の副産物でもあり、イタリアとサン・マリーノは大小の差はあれ、姉妹国と言える。
 イタリアが統一に向かっていた頃、海の向こうのアメリカでは、南北が分裂する内戦に向かっていた。興味深いことに、サン・マリーノ政府は時のエイブラハム・リンカーン米大統領に書簡を送り、両国の同盟を提案するとともに、リンカーンにサン・マリーノ名誉市民権を授与している。
 このような奇想天外な「同盟」関係は正式な意味では実現しなかったが、リンカーンアメリカとは対照的な小国サン・マリーノの共和体制に感銘を受け、儀礼的な意味で提案を受け入れたのである。
 サン・マリーノはガリバルディにも市民権を授与していたが、自国の独立を確固として維持しつつも、国の統一のために尽力する人物は厚意的に遇するサン・マリーノの外交的に機微な手腕には、注目すべきものがある。