歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

もう一つの中国史(連載第8回)

三 北中国の混成


(2)騎馬遊牧勢力の台頭
 北方・東北の遼河文明が衰退した後、後に漢民族として統一されていく黄河文明人が北方にも拡散していったと見られるが、さらなる北方から対抗勢力として立ち現れたのが、騎馬遊牧勢力であった。この勢力については、伝承的な夏の時代から黄河文明人によって認識されており、時代により様々な呼称が与えられてきた。
 遊牧という生活様式は、その素朴さにもかかわらず、農耕より遅く現われた比較的「新しい」生活様式である。それは農耕の延長形態である定住型の牧畜とも異なり、季節ごとに移動しながら可動的な生活を営むもので、軍事面では高い機動力を持った騎馬戦力の発達を促した。
 その高度な騎乗騎射術は漢民族にも永続的な影響を及ぼし、戦国七雄の一つであった趙の武霊王は騎馬遊牧民の胡服騎射を自国にも導入し、それまで直接騎乗する習慣のなかった漢民族に軍事的な革命を引き起こした。
 こうした騎馬遊牧勢力は、当初は統一されず、部族ごとに割拠していたと見られるが、中原が戦国時代末期にあった前3世紀末頃になると、漢民族により匈奴と称された騎馬遊牧勢力が強力な首長に率いられ、統一的な遊牧国家を樹立する。こうした北方の情勢変化は、中原でも秦、次いで前漢が相次いで統一国家を樹立した戦乱止揚の潮流に沿ったものであっただろう。
 匈奴の民族的出自については諸説あり、定説を見ないが、その主流がモンゴロイド種族であったことはほぼ間違いなく、また言語・文化の特徴からは、後代のモンゴルに近いものがある。おそらく、後に中央アジア方面で二大遊牧勢力となるモンゴル系とテュルク(トルコ)系とが分化する以前におけるモンゴロイド系騎馬遊牧勢力の最初の民族的凝集が匈奴であったのだろう。
 ただ、匈奴に破られるまで、モンゴル高原東部にはモンゴル系の直接的な遠祖と見られる東胡と呼ばれた民族集団が展開し、高原西部を本貫とした匈奴には遺伝的にも一部コーカソイド系の混在が確認されている点からすると、匈奴は後代のテュルク系遠祖集団に近いと想定することもできそうである。
 匈奴国家の実質的な創始者前漢の創始期に並行的に現われた冒頓単于で、彼は父の頭曼単于をクーデターで殺害し権力を簒奪したうえ、強力な軍事力で統一帝国を建てた戦略家であった。前漢開祖・劉邦とも対等以上に渡り合い、劉邦率いる前漢軍を攻囲し、賄賂で辛くも脱出した劉邦と有利に講和してみせた。
 その後、60年にわたり前漢は毎年多額の財物を贈って匈奴による領土不可侵を保証させる羽目となり、この間の両国関係は河南オルドスまで南下占領していた匈奴側優位と言ってよかった。匈奴はまた、亡命漢人を官僚として登用し、記録や徴税など国家制度の整備も進めた。
 しかし、前漢に第7代武帝が現われると情勢が一変する。内政を安定させた武帝は、本格的な対匈奴戦争を開始、衛青と霍去病[かくきょへい]という有能な武将を起用して匈奴に勝利を収め、冒頓の後は名君に恵まれなかった匈奴を北方へ退却させたのだった。一方、北辺を安定させた前漢は、以後領土を拡大し、全盛期へ向かう。