歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

もう一つの中国史(連載第8回)

三 北中国の混成

 

(2)騎馬遊牧勢力の台頭
 北方・東北の遼河文明が衰退した後、後に漢民族として統一されていく黄河文明人が北方にも拡散していったと見られるが、さらなる北方から対抗勢力として立ち現れたのが、遊牧勢力であった。この勢力については、半伝承的な夏の時代から黄河文明人によって認識されており、時代により様々な呼称が与えられてきた。
 春秋時代には北狄と呼ばれ、白狄や赤狄、長狄といった支族を擁したが、中でも最も中原寄りに割拠した白狄族は、南下して中山国や代国のような小国を樹立した。これらの小国は漢民族の文化を取り入れた遊牧民族による定住国家の先駆であった。
 代国は早くに滅びたが、中山国の王家は周王家の子孫を称し、周の王姓と同様に姫姓を名乗るなど、周の分封国家に名を連ねた。他の漢民族系諸国からは蛮族視されたとはいえ、中山国は戦国七雄の魏の侵攻による中断をはさみ、紀元前296年に趙に侵攻され、滅亡するまで、七雄に次ぐ強国として存続した。
 1970年代に河北省平山県で発掘された中山王墓では中国最古の兆域図が発見され、漢文化を摂取した壮麗な陵園の存在が証明されるとともに、遊牧文化特有の天幕遺構も発見され、決して蛮国ではなかった中山国の複合的な文化が見て取れる。
 漢化に傾斜していた中山国は遊牧的生活様式をほぼ喪失していたと見られるが、遊牧という生活様式は、その素朴さにもかかわらず、農耕より遅く現われた比較的「新しい」生活様式であって、それは農耕の延長形態である定住型の牧畜とも異なり、季節ごとに移動しながら可動的な生活を営むもので、軍事面では高い機動力を持った騎馬戦力の発達を促した。
 その高度な騎乗騎射術は中華民族にも永続的な影響を及ぼし、趙の実質的な初代君主・武霊王は騎馬遊牧民の胡服騎射を自国にも導入し、それまで直接騎乗する習慣のなかった中華民族に軍事的な革命を引き起こした。
 北方騎馬遊牧勢力は当初は統一されず、部族ごとに割拠していたと見られるが、中原が戦国時代末期にあった前3世紀末頃になると、漢民族により匈奴と称された騎馬遊牧勢力が強力な首長に率いられ、統一的な遊牧国家を樹立する。こうした北方の情勢変化は、中原でも秦、次いで前漢が相次いで統一国家を樹立した戦乱止揚の潮流に沿ったものであっただろう。
 匈奴の民族的出自については諸説あり、定説を見ないが、その主流がモンゴロイド種族であったことはほぼ間違いなく、また言語・文化の特徴からは、後代のモンゴルに近いものがある。おそらく、後に中央アジア方面で二大遊牧勢力となるモンゴル系とテュルク(トルコ)系とが分化する以前におけるモンゴロイド系騎馬遊牧勢力の最初の民族的結集が匈奴であったのだろう。
 ただ、匈奴に破られるまで、モンゴル高原東部にはモンゴル系の直接的な遠祖と見られる東胡と呼ばれた民族集団が展開した一方、高原西部を本貫とした匈奴には遺伝的にも一部コーカソイド系の混在が確認されている点からすると、匈奴は後代のテュルク系遠祖集団に近いと想定することもできそうである。
 匈奴国家の実質的な創始者前漢の創始期に並行的に現われた冒頓単于で、彼は父の頭曼単于をクーデターで殺害し権力を簒奪したうえ、強力な軍事力で統一帝国を建てた戦略家であった。前漢開祖・劉邦とも対等以上に渡り合い、劉邦率いる前漢軍を攻囲し、賄賂で辛くも脱出した劉邦と有利に講和してみせた。