歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

シチリアとマルタ―言語の交差点(連載第10回)

九 シチリア王国支配と土着マルタ語

 マルタでは、200年以上に及んだイスラーム勢力の支配をシチリアのノルマン人勢力が1091年に終わらせ、1127年以降はシチリアノルマン朝支配下に入った。これはマルタにおけるある種のレコンキスタであり、再びキリスト教勢力の支配が回復されたことになる。
 そうなると、この先はシチリア本国と同様、イスラーム支配時代の共通語であったシチリアアラビア語が排除されて、印欧語族系のロマンス語系言語に交替していくことが予想されるが、マルタではそうはならず、シチリアアラビア語を基本とする阿亜語族系の言語が恒久的に定着し、現代のマルタ語へと継承されていく。
 このように対照的な経過を辿った要因として、マルタに対するシチリア王国の支配密度は低く、マルタではムスリムが排除されることなく、そのまま居留を許され、ムスリムの首長(エミール)にもある種の自治が認められていたことから、言語的にもロマンス語系言語への交替が生じなかったことが考えられる。
 シチリア王国はその支配者をめまぐるしく替えながら、以後400年以上にわたってマルタを支配し続けるが、その間にマルタのイスラーム教は漸次衰滅し、ローマカトリックに置き換わっていく。しかし、言語的にはシチリアアラビア語を基盤とする言語が維持され、それが土着のマルタ語として確立されていった。
 現時点においてマルタ語で書かれた最も古い文書は、15世紀に活躍した哲学者・詩人のピエトロ・カシャロの詩イル‐カンティレナであるとされる。1966年に発見されたこの作品テクストの語彙には幸運を意味する単語を唯一の例外としてロマンス語系のものが含まれず、ほぼ全文がアラビア語由来の語彙で構成されている。
 このことは、カシャロが執筆活動を行ったシチリア王国支配時代末期の15世紀に至っても、マルタ語はロマンス語系の影響をほとんど受けていなかったことを示唆しており、この時代には言わば純正マルタ語が強固に形成されていたことになる。
 ただし、イル‐カンティレナはアラビア文字ではなく、ラテン文字で記述されている。このような書記法は、比較対象としてはやや不適切ながら、漢字で大和言葉を記述した日本の万葉集に似ていると言える。
 このことはカシャロがシチリアパレルモで学び、世俗・教会裁判所双方で裁判官となり、ラテン語の素養を持つ人物でもあったらしいことを考えれば、15世紀頃には公用語ラテン語と共通語のマルタ語が区別される二重言語状況にあったのであろうことをも示している。