シチリアにアラビア語をもたらしたイスラーム系シチリア首長国は、11世紀半ば頃には統一性を失い、分裂した。その隙をついてシチリア征服に乗り出したのは、かねてより南イタリアで遠征活動を行っていたノルマン人勢力であった。
そうしたノルマン人勢力・オートヴィル家の武将ルッジェーロ1世は1072年、シチリアの首都パレルモを落とし、シチリアの領主に納まった。これはイベリア半島に先立つキリスト教徒勢力によるレコンキスタであり、以後、シチリアは半恒久的にキリスト教世界に復帰するが、支配勢力は目まぐるしく変遷した。
1816年に両シチリア王国が成立するまでの中・近世のシチリア王国には、最初のノルマン朝から最後のブルボン朝に至るまでの700年間で、その時々の支配勢力の印欧語系言語が流入してきた。
その過程でアラビア語は消滅し、シチリア・アラビア語はむしろマルタへ移住した集団により、マルタ語に姿を変えて確立されることとなった。反面で、種々の印欧語系外来言語が混交され、近代以降のシチリア語が醸成されていった。
そうした中でも、イタリック系言語としてのシチリア語が文章語としても大きく発展したのは、ノルマン朝が終焉した後、これを継いだ神聖ローマ帝国系のホーエンシュタウフェン朝二代目シチリア王(兼神聖ローマ皇帝)・フリードリヒ(フェデリーコ)2世の時代であった。
フリードリヒは好学の君主として知られていたが、文芸にも関心が高く、フリードリヒのパレルモ宮廷にはシチリア語で書くすぐれた詩人が集い、フリードリヒ自身を含め、シチリア語による詩作が活発に行われた。本来はドイツ人であるフリードリヒがこれほどシチリア語に入れ上げたのは、彼自身イタリア生まれであり、おそらくはドイツ語より、ラテン語やシチリア語を第一言語としていたからであろう。
後にダンテによって「シチリア派」と命名され、その功績を称えられた中世シチリアの文壇は、ひとりシチリア語にとどまらず、北イタリアの方言をも取り込むことで、ラテン語の派生俗語としての近代イタリア語の発展そのものにも寄与したと評されているところである。
なお、ローマ教皇との抗争に敗れたホーエンシュタウフェン朝が終焉した後、シチリアはフランス系アンジュー家の短い支配を経てスペインの手に渡り、長くスペインの支配を受けるため、この時代にスペイン語の影響も相当に被ることになった。