歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

南朝後統列伝

南朝後統列伝(連載第8回)

◇熊沢大然(生没年調査中)/寛道(1889年‐1966年) 西軍南帝の消息情報が絶えて以来、南朝後統、中でも正嫡の小倉宮家はもはや絶家したものと思われていたが、それから400年近くも経た明治時代になって、小倉宮家末裔を称する一族が現れた。それ…

南朝後統列伝(連載第7回)

八 西軍南帝(1454年‐?) 長禄の変による後南朝の瓦解は、お家再興を目指していた赤松氏遺臣隊の勇猛かつ巧みな作戦によるところが大きい。彼らは10年以上をかけて神璽が奥吉野にあることを突き止めた幕府に掛け合い、決死の神璽奪還作戦を自ら請け負…

南朝後統列伝(連載第6回)

六 南天皇(1430年?‐1458年) クーデターとしては失敗に終わった禁闕の変により神璽の奪取に成功したことで、南朝復興運動は朝廷としての最重要の印は手にした。よって、「後南朝」と呼び得る実態を備えたのはこの時であり、以後、幕府側に神璽を奪…

南朝後統列伝(連載第5回)

四 通蔵主/金蔵主(?‐1443年) 禁闕の変で真の首謀者と推定される鳥羽尊秀こと小倉宮教尊に代わって南朝勢力のシンボルとして前面に押し上げられたのが、通蔵主と金蔵主の兄弟僧侶である。兄弟の系譜については同時代的にも小倉宮流とする説と護聖院宮…

南朝後統一列伝(連載第4回)

三 小倉宮教尊(1419年‐1443年) 南朝後統の中では珍しく生没年がおよそ判明している人物であるが、父の聖承とともに法名しか判明していない。彼についてわかっていることは北朝系嫡流の断絶に際してその後継として父が教尊を推していたこと、しかし…

南朝後統列伝(連載第3回)

二 小倉宮聖承(?‐1443年) 小倉宮聖承は小倉宮恒敦の長子と思われる子息である。聖承は法名で、俗名は記録されていない。しかし、その事績については父よりも多くのことが判明している。というのも、「皇位の回復のため最も派手に動き回ったのは、この…

南朝後統列伝(連載第2回)

一 小倉宮恒敦(?‐1422年) 小倉宮恒敦は「南朝後統」・小倉宮家の創始者と目される人物であるが、その影は限りなく薄い。わかっているのは、彼が南朝最後の後亀山天皇の皇子であったこと、嵯峨小倉山下に居住していたこと、1422年(応永二十九年)…

南朝後統列伝(連載第1回)

序 「南朝後統」とは、南北朝が統一された後もしばらく存続した旧南朝家系の中でも正嫡とみなされる系統を指す。「皇統」と表記しないのは、旧南朝はもはや皇家ではなくなるからである。「南朝後統」はあくまでも筆者の造語であり、学術用語ではない。 こう…