世界歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

松平徳川女人列伝(連載第3回)

三 長勝院(1548年‐1620年)/西郷局(1552年?‐1589年)
 
 一般的に、戦国・近世大名の側室は、家門の継承という大名家存続の条件を保証するために、正室の負担を補う目的から積極的に利用されていたが、とりわけ松平徳川家においては側室の確保が巧みに行われ、それが家門繁栄の鍵ともなってきた。その点では、やはり徳川初代将軍家康が率先垂範している。
 家康には、その経歴が詳細不明の者を含めて20人ほどの側室がおり、すべてを網羅することはできないが、初期の側室の中で、後継者となり得る男子を産んだという点で足跡を残したのは、長勝院(本名・万)と西郷局(本名・愛)である。
 万は正室・築山殿付きの女中だったところを家康に見初められて側室となったとされる。不仲だった築山殿への当てつけのような意味もあったのかもしれない。当時としては遅い30歳近くになって、家康次男の秀康を産んだが、秀康は初め豊臣家の、次いで結城家の養子に出されたため、家康の後継者とはならなかった。
 秀康が後継者となり得る立場にありながら遠ざけられた理由は不詳だが、生母の身分の問題が影響していた可能性はあるだろう。もっとも、万の実家は永見氏という古来の社家で、万自身も家康生母・於大の方の姪と、血縁上は有利な立場だったが、築山殿付き女中という前歴が問題だったのかもしれない。
 もっとも、万は正室付き女中出自の側室という立場にふさわしく、つつましやかな性格であったようで、結城秀康の生母という以上に格別の事績は記録されていない。関ケ原の戦いの後、越前藩主となった秀康に付いて福井に赴いたが、慶長12年(1607年)に息子に先立たれた。その後、出家し、長勝院と号して、当時としては長命の70歳代まで存命した。
 
 愛は西郷局の通称どおり、三河土豪で今川氏家臣から松平氏家臣に転じた西郷氏の娘であった。家康の側室となる以前に少なくとも一度、一説では二度結婚歴があるが、いずれも死別している。家康から側室に望まれた経緯は不詳であるが、家康の比較的初期の側室として、あまり目立たない家臣の親族という立場は無難な選択だったのかもしれない。
 彼女の産んだ三男の秀忠が最終的に家康の後継者におさまったのは、長男の信康が処刑、次男の秀康も養子転籍となったゆえの結果論にすぎないが、結果的に、西郷局は二代将軍生母として徳川幕府の継承・存続に重要な役割を果たしたことになる。
 西郷局もまたつつましやかな人柄で、表でも奥でも権勢を張るようなことはなく、視覚障碍者への福祉的援助など慈善活動に従事していた記録が残るなど、慈愛に満ちた人物であったようである。ただ、長勝院とは対照的に、夫の天下取り以前に死没している。
 比較的若年での死因は不詳であるが、築山殿一派、特に女中による毒殺説もある。築山殿付き女中に恨まれるとすれば、元同輩だった長勝院のほうがターゲットになりやすかっただろう。上流階級といえども短命な時代、30代後半での死没は必ずしも不自然ではない。
 
四 茶阿局(?‐1621年)
 
 戦国武将側室には低い身分からのし上がる者も少なくなかったが、家康側室陣の中では、茶阿局がその筆頭格である。彼女が側室になった経緯については、ドラマチックな伝承が残されている。それによれば━
 本名を久といった彼女は初め遠江国の田舎鋳物師の後妻にすぎなかったが、彼女に横恋慕した代官が夫を闇討ちにしたため、久は夫の仇を討つべく、鷹狩に来た家康一行の前で直訴に及び、件の代官は処罰された。しかし、久を見初めた家康が彼女を浜松城に連れ帰り、自らの側室とした。
 あまりに劇的でにわかに信憑性を測り難いが、とにかく彼女はかなり低い身分―武家出自としても地侍級―から家康側室におさまったことは間違いない。しかし、伝承の示すように、行動力と聡明さも備えており、家康から信頼され、いわゆる大奥という形ではまだ整備されていなかった奥向きを任されたという。その点では、茶阿局が最初期の大奥主宰者と言えるかもしれない。
 江戸城に移った茶阿局は、家康六男となる松平忠輝の生母となった。しかし、茶阿局の身分が低いためか、生後間もなく他家の養子に預けられてしまう。忠輝は成長後も家康に生涯嫌悪され、松平家庶流の養子とされたうえ大名に取り立てられるも、冷遇され続けた末、異母兄秀忠の命により改易・流刑に処せられてしまう。
 結局のところ、茶阿局は実質上奥女中的な立場で、奥向き実務者としては成功したが、家門の継承という点では、出自身分が何より重視される封建的な価値観から、息子の処遇を安定させることができず、不遇の人だったと言えるだろう。