歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

松平徳川女人列伝(連載第8回)

十二 お楽の方(1621年‐1651年)

  本名を蘭といったお楽の方は、3代将軍家光の側室として世継ぎとなる家綱(4代将軍)を産んだことで、幕府の存続を保証した重要人物となった。しかも、その生涯は二人の弟たちにも恩恵の及ぶ波乱含みの階級上昇に彩られている。
 お楽の方は下野国の農民から武士に取り立てられたという実父を持つ下級武士階級の出自であるが、この父・青木三太郎利長が問題人物であった。文献上は武士とされるが、農村で農業に従事した郷士身分と思われる。利長は上京して旗本屋敷で仕官したようであるが、使い込みによって解雇され、故郷で蟄居となったが、今度はその地で禁猟を犯し、ついに死罪に処せられた。
 このように実父は不祥事にまみれ、最後は罪人となったため、お蘭は大名屋敷に奉公に出た実母(増山氏)に伴い、再び江戸に出るが、母が商人と再婚したのを機に町人階級となり、養父の稼業の古着屋を手伝っていた時、当時大奥事務方を仕切っていた春日局が通りがかりに目を留め、大奥へスカウトしたされる。そして、しばらくして家光の寵愛を受け、家綱を産むというサクセスストーリーである。
 虚弱で男色傾向もあったとされる家光に何とか世継ぎを作らせようと奔走していた春日局の戦略が的中したわけである。ちなみに、本名のお蘭は音韻が「乱」に通じ不吉であるとして、お楽に改名させたのも春日局の差し金であったようである。
 家光は先にお振の方という側室との間に長女をもうけていたが、男児は家綱が初めてであることから、家光を感激させ、親族にも及ぶ封建的な褒賞として、お楽の方の二人の弟・正利と資弥[すけみつ]も召し出し上級武士に叙した。兄弟は甥の家綱が4代将軍となった後、いずれも大名に取り立てられる栄進を遂げており、こちらも町人から大名へという異例の階級上昇を示している。
 かくして、罪人の子にして一時は町人身分に落ちながら、将軍側室かつ世継ぎの生母となったお楽の方は、家光没後、慣例に従い落飾して宝樹院を号したが、家光没年の翌年に自らも後を追うように没した。
 こうして、お楽の方は新将軍生母として権勢を張る間もなく早生したため、いかめしい宝樹院の法号よりお楽の方で呼ばれるほうがふさわしいようである。生前も世子の生母として発言力を持った記録もなく、慎ましい人物だったようである。
 その点、もう一人の側室で5代将軍・綱吉の生母となった桂昌院とは好対照であるが、二人の弟が上級武士として召し出されるに際して、お楽の方が何らかの口添えをした可能性はあり、全く無欲の人ではなかったかもしれない。