歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

松平徳川女人列伝(連載第9回)

十三 順性院(1622年‐1683年)

 3代将軍徳川家光の側室の中でも、順性院(お夏の方)はその出自が明確に町人身分と判明している点で、際立っている。町人身分ゆえに当初は家光正室の鷹司孝子付きの将軍御目見えが許されない下級女中(御末)からスタートせざるを得なかったが、将軍の入浴世話係(御湯殿)に抜擢された縁で、将軍の寵愛を受けることとなった。
 お夏の方はやがて懐妊し、家光にとっては次男となる綱重を産んだ。この功績から、実家は町人身分から士分の旗本藤枝氏に昇進、お夏の方の弟・藤枝方孝は甲府藩家老にまで栄進している。
 お夏の方が産んだ綱重は、家光の姉・千姫(天樹院)の養子とされた後、甲府徳川家開祖の甲府藩主となり、世継ぎのなかった長兄・家綱の後継候補であったが、長兄に先立って死没したため、将軍位を継ぐことはできなかった。しかし、順性院の孫に当たる家宣が後年、6代将軍となっている。
 ちなみに、実家の藤枝家はその後も家格の高い旗本寄合として100年以上存続していったが、18世紀の天明年間に当時の当主・藤枝教行が吉原遊女との心中事件を起こしたかどで改易処分となり、没落している。

十四 桂昌院(1627年‐1705年)

 桂昌院も家光側室の一人であるが、その公式の出自は五摂家二条家に出仕する武家・本庄氏とされていながら、西陣織屋の娘であるとか、父が朝鮮人女中に産ませた娘であるとか、果ては大根売り、八百屋の娘である等々、中傷にも近い別伝が入り乱れるのは、彼女が生前も没後も毀誉褒貶の激しい人物だったことを窺わせる。
 通り名を玉といった桂昌院は、先輩格の側室で後に春日局に代わって大奥の采配を握ることになるお万の方付き女中からスタートした後、春日局に評価され、その引きで家光付きの幹部女中(御中臈)となり、やがて側室として懐妊、三男の綱吉を産む。
 順性院からはライバル視され、虐めを受けたとされる桂昌院が幕政にまで影響力を持つようになるのは、息子の綱吉が5代将軍に就任してからのことである。彼女は家光没後、落飾して身を寄せていた筑波の知足院中善寺から江戸城に舞い戻り、将軍生母として采配するようになった。
 桂昌院は形式的な落飾・出家にとどまらず、仏教に深く帰依しており、新義真言宗の僧侶・隆光を寵愛し、綱吉にも紹介、事実上の将軍顧問格に押し上げた。その隆光が綱吉の代名詞とも言える生類憐み令に関与したとする説は近年の研究で否定されつつあるが、同法が仏教の殺生禁の戒律に影響されていることは否めず、桂昌院自身も立案に関与していた可能性はあろう。
 その他、桂昌院護国寺の開山にも関わり、荒廃していた畿内諸寺院の復興・再建事業にも取り組んだことで、将軍、隆光ともども放漫財政を招いた元凶として批判されることもある。そうした批判は生前からあり、綱吉没後、甲府徳川系の6代家宣の改革時代にはなおのこと強まったことが、中傷に近い出自説を生んだとも考えられる。
 ちなみに、綱吉は桂昌院を敬愛し、女性として前例のない従一位を朝廷から下賜させるなど優遇したほか、桂昌院の弟・本庄宗資は大名に栄進し、幕末までしばしば転封を繰り返しながら最終的に京都の宮津藩主に固定される本庄松平氏の祖となった。