歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第3回)

二 太祖・李成桂(1335年‐1408年)

 李朝創始者となる太祖・李成桂の生涯は大きく四期に分けることができる。第一期は、父の子春が死去した後、後を継いで北方軍閥となり、さしあたり高麗の武将として活動する時期である。実は、彼にとってはこの時期が最も長く、30年近くに及ぶ。
 この時期は高麗王朝末期であり、様々な国難に襲われていた。最初に成桂が直面したのは、元の反撃である。前回述べたように、元の高麗支配の拠点・双城総管府は子春の協力もあって壊滅していたが、まだ勢力を保っていた元は双城奪還を目指して大軍をもって反攻してきた。成桂はこれを迎撃・撃滅して、その武勇を天下に知らしめた。
 元の大規模な侵攻はもう一度起こるが、成桂はまたしてもこれを退け、最終的に高麗を元から完全に自立させることに成功した。さらに、隙を突いて北辺を占領していた女真族を駆逐して、占領地を解放した。
 以上は1360年代の事績であるが、70年代以降になると、今度は倭寇による寇略が課題となった。倭寇は国の組織された軍隊ではなく、私的な武装集団であるだけにかえって厄介な敵であったが、成桂は倭寇撃退作戦でも手腕を発揮し、幾度も勝利を収め、武将としての名声をいっそう高めた。
 80年代になると、中国大陸で元に取って代わり新たな王朝を樹立した明との関係がこじれた。明の一方的な旧元領土の割譲要求に対し、心情的に親元派だった時の高麗王・王禑は遼東地域の占領という無謀な作戦計画を立て、成桂に実行させようとした。
 これに対し、実戦経験豊富な成桂は軍事的合理性の見地から反対するも、却下され、やむなく出撃する。しかし遠征軍は梅雨による増水のため、鴨緑江の中洲にある威化島で立ち往生、窮地に陥ったことから、成桂は撤退を要請するが、またも却下されたことから、無断で撤退を決めた。これが有名な1388年の「威化島回軍」である。
 ところが、この無断撤退を反逆とみなした王禑は成桂の粛清を企てたことから、成桂は先制的に軍事クーデターを敢行し、宮廷の実権を掌握する。その後、成桂は自身に従順な恭譲王を傀儡の王に立て、事実上の最高執権者にのし上がった。この時から、自ら王位に就く92年までが彼の人生第二期である。
 実のところ、為政者としての彼の事績のほとんどはこの時期に集中している。為政者としての成桂は、従来の高麗王朝では傍流に置かれていた地方地主層や新興儒臣層を支持基盤にしていたため、李成桂政権は当然にもかれらの天下であった。
 特に重要な改革は、両班制の再構築である。簡単に言えば、高麗王朝時代の支配官僚層を自らの支持層である地方地主層や新興儒臣層と入れ替えたのであった。その手段として、科田制を導入した。
 科田制とは高麗末期に広がっていた荘園的大土地所有を否定し、土地を国有化したうえ、官等に応じて官僚らに田地(科田)を支給し、一律に十分の一の田税の収奪を認めるもので、それは実のところ、高麗王朝初期の旧田柴科制への回帰という反動政策であった。これは明らかに先の新興エリート層の利益に適う保守的「改革」であり、彼らの階級的勝利を意味していた。
 ただ、これにより従来は文班(文官)登用試験であった科挙制度が武班(武官)も含めた統一的な官吏登用試験として整理統合され、両班科挙試験の受験資格を持つ家柄を指すことになった。
 これは一見すると、試験を通じた「能力主義」社会の到来に見え、事実、受験資格は農民以上の「良民」全般に開かれていながら、実際上は財力を持つ家系の子弟しか受験できず、両班身分の固定化が進行する。
 このように成桂の「改革」は、革新的というより保守的なものであったが、出発点においては、成桂を含め、従来の高麗王朝では傍流の階層が新たな支配層に上った点では、日本の戦国時代の下克上社会に似ていなくはない。
 しかし、成桂は武将のままではおらず、92年、周囲に推される形で自ら王位に就き、新王朝を樹立した。この点では、世襲制の幕府という特異な形で皇室と並存した日本の武家政権とは本質的に異なっている。
 実際、高麗王朝時代にも一時、軍閥世襲的に政権を握る武臣政権時代があったが、長続きせず、成桂もこれを踏襲しようとはしなかった。朝鮮では中国的な一元的王朝政治の伝統が強く、日本のように公武二元政治の仕組みが根付くことはなかったのである。
 新王朝樹立後、将来の禍根を絶つため、旧高麗王族に対しては苛烈な粛清が加えられ、94年には成桂自身の傀儡として擁立され、王位を禅譲もした恭譲王を含む存命中の王族が皆殺しにされた。
 しかし、即位時すでに当時としては老齢の60歳近くに達していた太祖は王位に執着がなく、在位わずか6年にして生前譲位し、隠居してしまうのである。王位に就いてからは、旧高麗王族粛清と最初の基本法典「経済六典」の発布以外にこれといった事績も見当たらず、頂点を極めたこの第三期の人生は生前譲位という策も含め、王朝の基礎固めに終始したと言えよう。
 このような老齢での天下取り、旧体制根絶そして早期引退という軌跡はどこか徳川家康にも似ている。決して恣意的な独裁者ではないが、権力固めのためには冷酷な決断も辞さないという性格の点でも両者には共通性があり、ともに歴史的な長期安定支配体制を築いた始祖としての秘訣であるのかもしれない。
 太祖は譲位後もなお10年以上存命したが、この人生第四期は息子たちの間での熾烈な後継者争いが展開され、それに付随する反乱も発生した動乱の時期であった。これは、太祖の意に反して直面した国難であるため、稿を改めて見ることにする。


§2 宗貞茂(生年不詳‐1418年)

 李氏朝鮮王朝の太祖李成桂に相当する宗氏側人物は、おおむね同時代の宗貞茂であっただろう。貞茂は半ば伝承的な家祖重尚から数えて8代当主に当たるとされているが、一族では傍流にあり、先代から家督を奪取した簒奪者とみなされている。
 彼の当主簒奪は1398年(応永5年)のこととされる。李朝太祖はこの年、生前譲位し、2代目定宗が立っているので、太祖とは入れ替わりの形になっている。宗氏系図上では、貞茂は先代の刑部少輔経国(頼茂)の孫とされ、伯父盛真も右馬頭の官職を持っていたことからすると、伯父との家督継承争いに勝利したということも考えられる。
 いずれにせよ、貞茂は家内クーデターにより当主の座に就いたという限りで、同様にクーデターで王朝創始者となった李朝太祖と共通項を持っている。以後も家督継承争いはしばしば発生するも、基本的に宗氏当主は貞茂の後裔に継承されていく。