三 定宗・李芳果(1357年‐1419年)/太宗・李芳遠(1367年‐1422年)
太祖・李成桂の晩年を悩ませたのは、後継者問題であった。王子は8人いたが、本来なら後継者となるはずだった第一夫人神懿王后との間の長男芳雨が隠遁、早世したことから、太祖は寵愛する第二夫人神徳王后との間の八男(末男)芳碩を王后の推挙により後継指名した。
言わば末子相続の形を選択したわけだが、この決定の裏には当時宰相格として宮中で絶大な権勢を持った鄭道伝の策があったと見られる。しかし芳碩はまだ年少であり、しかも、建国に当たっては神懿王后との間の五男芳遠の功績が特に大きかったため、彼の不満が爆発した。
芳遠は1398年、同母兄弟らを動員してクーデターを起こし、鄭道伝のほか、芳碩とその同母兄も殺害するという挙に出た。この事件を機に成桂は退位し、芳遠の同母兄で二男の芳果が2代国王(定宗)に即位する。しかし、定宗は名目的な王にすぎず、政治の実権は芳遠が掌握した。
ちなみに、この政変で排除された鄭道伝は太祖・李成桂の幕僚・思想家にして建国功臣であったが、王も士大夫も国の根本たる民のためにあるとする民本主義の思想に基づき、専制王制ではなく、宰相を中心とする士大夫による政治主導というある種の立憲君主制を支持する理論家としても、太祖時代に自ら絶大の権勢を持った。
そうした権力中枢人物を排除した芳遠はおそらく時機を見て自らが即位する野望を抱いており、自身の権力固めのため、各王子が配下に持つことを許されていた私兵制度の廃止を推進した。これに不満と警戒を抱いた四男芳幹が1400年に武装反乱を起こすが、芳遠はこれを鎮圧した。
最大のライバルだった芳幹を退けた芳遠は、定宗からの譲位を受けて、3代国王(太宗)として即位する。しかし、02年には故・神徳王后の親類趙思義が復讐を大義名分に東北地方で反乱を起こし、すでに引退していた父の太祖もこれを当初は支持したとされる。
この反乱を鎮圧し、太祖とも和解を果たして、ようやく太宗の政権は安定し始める。その後も彼は王朝基盤の強化のため、しばしば功臣や外戚にも非情な粛清を行なったが、単なる暴君ではなく、行政制度や法令の整備なども進める有能な統治者でもあった。対外関係では明朝から冊封を受け、大陸関係を安定化させた。
そして一応内政外交の基礎が固まったのを見届けると、18年に三男の李祹(忠寧大君)に譲位し、上王となる。太宗には李褆(譲寧大君)という長男がいたが、彼は不行跡のため後継者から外されたのであった。この判断の正しさは、譲寧大君が後に李朝最高の英主世宗となったことで証明された。
太宗は太祖とは異なり、譲位後も22年の死去まで実権を保持し続けた。失敗に終わったものの、再び活発化していた倭寇征伐のため、19年に対馬攻撃を実行したのも、上王太宗の指揮によるものであった。
こうして王朝初期の不安定な時期を時に強権を発動して乗り切り、王朝を軌道に乗せた事績の点では室町幕府3代将軍足利義満を思わせるところもある太宗が、父の意向に反してでも力づくで自ら実質的な後継者となったことは、李朝の存続にとっては明らかにプラスだったようである。
§2 宗貞茂〈続〉
貞茂時代の宗氏は形式上は主家少弐氏の下で筑前守護代の地位にあったが、対馬にあっては守護職として実質的な領主の地位にあった。朝鮮半島に最も近い辺境領主として朝鮮における王朝交代の情報は把握しており、貞茂は当主の座に就くと、早速李氏朝鮮王朝との通交を開始している。
それは1399年(応永六年)のこととされるから、朝鮮側では太祖が生前譲位した翌年、2代定宗の時代である。つまり、宗氏は太祖存命中の李氏王朝発足最初期から朝鮮との通交を開始していたことになる。
宗氏がこれほどに朝鮮王朝との通交を重視したのは、元来山がちで耕作地が少なく、農業生産力に限界のある対馬にあって、貿易を主要財源とする必要に迫られていたからと考えられている。その点、同じく農産に限界があり、アイヌ交易を財政基盤とした北方の松前氏と類似する政略であった。そのためにも、九州本土での戦役動員が多い筑前守護代職は弟に譲り、自身は対馬経営に専心した。
ちなみに、近代の大正時代になって、朝鮮が対馬を攻撃してきた1419年の応永の外寇における撃退の功績により貞茂が従四位を追贈されたのは史実誤認であり、彼は外寇前年の1418年(応永二十五年)にはすでに没しており、実際に撃退を指揮したのは嫡男の貞盛であったとされる。