歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版琉球国王列伝(連載第6回)

七 尚真王(1465年‐1527年)/尚清王(1497年‐1555年)

 前回の末尾で見たとおり、尚真王は生母宇喜也嘉の差配により、叔父を退けて12歳ほどで3代国王に就いた経緯から、治世初期には宇喜也嘉が実権を持ったと見られる。
 しかし、彼は若くして即位したうえ、比較的長生したため、在位50年に及び、この間に第二尚氏王朝の政治経済的な基礎が固められた。もっとも、宇喜也嘉も1505年の死去まで祭祀を通じて何らかの影響力を保持し続けた可能性があり、その意味では、宇喜也嘉存命中の時期は事実上尚真‐宇喜也嘉共治体制だったとも言える。
 そうした母に支えられ、尚真王は軍事面を担い、1500年には朝貢を懈怠した石垣島の豪族オヤケアカハチを討ち、琉球王府の支配がまだ手薄だったと見られる八重山諸島への支配を強化した。
 その翌年には、父尚円王の陵墓として玉陵を築造した。その際に刻まれた碑文によると、玉陵は宇喜也嘉や妹の初代聞得大君月清を含めた尚真王一族子孫の墓とされたため、玉陵は以後、尚氏王朝の墓域として定着した。
 こうした王統の保証に加え、政治面ではいまだ割拠していた地方按司の武器没収と首里集住義務付けにより、豪族の権勢を削ぎ、位階制度を備えた中央集権体制を整備した。また明との朝貢貿易を年次化し、宗主国明との関係強化を進めた。
 尚真王には七人の息子が確認されるが、このうち本来の世子である長男尚維衡は生母が事実上失権した2代国王尚宣威の娘だったためか、廃嫡とされ、浦添朝満として分家し、累代にわたり多数の重臣を輩出する大名小禄御殿の家祖となった。
 ちなみに、三男と四男も分家して御殿(ウドゥン)と呼ばれる大名家の家祖となっており、尚真王は以後の琉球王朝全体の血統的な起点となっている。その意味では、彼こそは第二尚氏王朝の実質的な開祖とも言える。
 さて、1526年の尚真王死去を受け、翌年4代国王に即位したのは、五男の尚清であった。尚清王は父王には及ばないものの、28年にわたり在位し、この間、首里城の防備強化や倭寇対策など軍事面で功績を上げている。
 こうして、尚真・尚清父子王の治世通算78年の間に琉球王朝の基盤が確固たるものとなり、以後、19世紀後半の大日本帝国による琉球併合まで存続していくこととなった。