歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版琉球国王列伝(連載第12回)

十三 尚穆王(1739年‐1794年)/尚温王(1784年‐1802年)/尚成王(1800年‐1804年)

 14代尚穆〔しょうぼく〕王は、父の先代尚敬王が死去した時はまだ10代と若く、すでに退官していた蔡温が薩摩藩の命により引き続き実質的な宰相格を務めた。この間、1756年の清国冊封使の接受も蔡温が仕切っている。
 蔡温が完全に引退した後、彼に匹敵するような実力を持った宰相は出ず、尚穆王代には重臣の合議が機能したと見られる。その成果として、86年に発布された琉球発の成文刑法典・琉球科律がある。これは従来、不文慣習法や判例に委ねられた刑法を集大成して、法治国家としての基盤を整備した意義を持つ。
 尚穆王が在位した40数年は比較的安泰無事であり、清国や薩摩藩との関係も良好であった。世子尚哲は好学の秀才と謳われ、73年から翌年にかけて薩摩藩を表敬訪問し、時の藩主島津重豪の歓待を受けるが、88年、父に先立って30歳で早世した。
 そのため、尚穆王を継いだのは孫の尚温王であった。彼も年少での即位ながら、父尚哲に似て好学と見え、教育制度の改革に乗り出した。すなわち、従来福建人にルーツを持つ久米村出身者が独占してきた中国留学生(官生)の制度の改革と新たな最高学府・国学の創立である。
 この教育制度改革は自身も久米村出身であった国師・蔡世昌を中心に断行されたため、彼は久米村出身者から激しい糾弾攻撃を受けた。その結果、98年には暴動に発展したため、王府が強制介入し、久米村出身者を弾圧した。このいわゆる官生騒動は王府主導で鎮圧され、以後、国学による高等教育制度が定着する。
 だが、父以上の短命で、18歳にして夭折した尚温王を継いだのはわずか2歳の長男尚成王であったが、これも翌年に夭折したため、尚哲の四男尚灝(しょうこう)が17代国王に即位することとなるというように、この時期の琉球王朝は王位継承に揺らぎが生じていた。

 


六´ 島津重豪(1745年‐1833年)

 島津重豪〔しげひで〕が8代薩摩藩主となったのは先代の父重年が若年で死去した11歳の時であり、祖父継豊が死去するまで、その後見を受けた。継豊没後は外祖父による後見を経て、親政を開始する。
 重豪は薩摩藩では久方ぶりに長寿を保つ藩主となるが、その半生は大きく三期に分かれる。第一期は上述した年少時の後見期であるが、第二期が表向き隠居する天明七年(1787年)までの親政期である。
 この時代から、重豪は藩政改革に取り組む。好学の重豪が最も注力したのは文教政策であった。その一環として藩校や武芸道場、天文研究所、医学校などを矢継ぎ早に設立した。このような政策は、重豪が歓待した琉球王世子尚哲を通じて、その子である尚温王による上述の教育改革に影響を及ぼした可能性がある。
 ただ、財政的には父の時代に幕府(将軍家重)から「手伝普請」として不当に課せられた木曽三川の治水事業(宝暦治水)の負の遺産もあり、重豪の諸政策は終生を通して藩の財政悪化を促進することになる。
 中でも隠居後に主導した蘭学への傾斜と華美好みは、自身による粛正改革策への転換を導くことになるが、この重豪治世第三期については稿を改めて見ることにする。
 なお、重豪は婚姻戦略でも従来の同族婚戦略から積極的な族外婚戦略に転換し、大勢の子女を他家に嫁入り・婿入りさせることで、島津氏の対外的な影響力を高めた。
 その一環でわずか3歳の時、一橋家の許婚として出した娘の茂姫が後に11代将軍家斉正室に就いたことで、外様大名ながら将軍舅という前例のない地位を手に入れ、幕政にも隠然たる影響力を持つに至った。